母の思い出と、昔の小国村の家の事

母が亡くなる前に、お墓を移した事があった。
家の不幸が続くあまり、祈祷を頼りにする母であった。
金もないのに、日本一の祈祷師だというので、岩手から、大阪の人まで頼んだことがあった。
父の脳卒中糖尿病もあり、姉のくもまっか出血二回の脳手術も楽でなかったが、私が人生を失敗し独りでいることが最後の災難であった。
自分の事は除いて。
代々何百年と浄土真宗であったが、祈祷を行う日蓮宗を紹介されて改宗したのであった。
母も呆けてしまって、先祖代々の宗旨に戻そうかと、周りを見てみると、なんとここは皆禅宗ばかりの土地ではないか。
隣の村は、親鸞聖人の直弟子が峠道を越えて、福島県地域の布教第一番の足跡があって、信心賑やかな土地柄なのであるが。
薩摩藩でも似たようなことがあったようだが、真宗自治的な集まりを行うので、警戒されて統制されたものと思われる。
伊達藩との境界地でもあるが、長島氏の家来達が多数、新渡戸氏が福島氏との橋渡し役を任じたお陰で、許された所だからであろう。
この地域独特の隠し念仏というものがあるが、禅宗に揃えられる前は親鸞聖人の弟子の下、多くの家が念仏宗であったのであろう。
後藤寿庵等が伊達藩から逃げてきた土地であり、隠れバテレンの証拠品などもあり、その影響かと思ったこともあったが、嘘であったようだ。
何日も在家の指導者の下、拝みに集まるもので、お寺の和尚さんも困ったものだ、と言っていると母が語っていたのを思い出す。
母の葬儀の時も、葬儀屋さんに、念仏をやるか、と聞かれたが、雑然とした気もしてやらないことにした。
15年前の父の時は、何日でもなかったが、地域の妙高人の方が指導してくれたのだが、今そのような馴染みの人も見当たらない。


母は私が幼児の頃から、近くにいた天理教の人の祈祷を頼みに行くことがあった。
天理教はその頃にぎやかであった。
毎年のように、伊勢参り団体を作った。
戦後直後に結婚したので、新婚旅行も何もなく、それでは新婚旅行ということで、と父と母が部落の人達と一緒に参加したことがあった。
金が無くて、最後の家の近くの駅に降りるまで、何か金が入用になるのではないかと、ヒヤヒヤとして気が休まらなかったと、母が話していたことがあった。
おみやげもあろうはずがない。
その駅で、やっと漫画本を買ったのだという。
思えば、他に、小学生の頃に本など買ってもらったことはなかった。
教科書もやっとで、お古を使う時代であったが、どうして他の家より金を使わなかったかというと、耕運機を買うため貯金していたのではないかと思う。
古い田は、飢饉時には頼みであるが、ぬかって働きづらい。
どうしても耕運機が欲しかったのであろう。
その頃早い購入ではなかったろうか。
直し直し、一生涯そのボロボロの耕運機を使い通した。
トコトコとリヤカーを引いて、杭や肥料を運んだり、稲を精一杯高く積んだりして、家と田んぼの間を何回も行き来した事を思い出す。
必ず、真っ暗になる七時八時九時ごろまでがんばるのであった。
それから母は何かしらの材料で質素な家族の夕食作りに入る。
毎日夜遅くまで、生活のためにがんばる父の生活スタイルについては何度も書いているが、四十九日で郡山まで行った帰りのバス中で、なぜか、時の人としてインタビューされていた検事だか誰かが、その時最高に売れていた山口百恵さんの事を聞かれ、尊敬している、三時間しか眠っていないらしい、と語っていた新聞記事を思い出した。
伊勢参りも、天理教布教所が全国に展開されていなければ、行くこともなかったことであろう。


ところで、桂小沢の家での撮影班の仕事の事であるが、もちろん、芝居を撮りに来たことはお互い納得していたことであった。
証拠を取りに、わざわざ日本に何台かしかないようなカメラを山中担いで、来ました、と自己紹介して、家に入ったそうであるが、何の証拠かというと、その時代に簡単なことで、天皇陛下のちゃんとした臣民であるかどうかの証拠である。
それで第三国人の侵入者の登場まで用意したのである。
普通こんな山中に、謀反侵入の時機であろうと、一人プラプラと忍び込むはずがない。
無茶なこしらえ事をやるものである。
実情無視、相手無視の無茶強引が運動組織の一部の特徴である。
本当に撮った物が本部にあるものかどうか知らないが、今でも光度不足で撮影が難しいことがある時に、出来はじめのカメラでは、昔の農家の薄暗い室内での撮影は絶対に不可能であったと言い切れるようである。
スタッフが何人かしてかかった事件なのである。
スタッフ事件、と呼ぶそうである。