母の周辺の思い出


決して悪いこととも思わず、山本村の家の家族達と出会った健一。
健一の人柄からして、その人たちに怒られるものと知っては、その家に入り込めるものではなかったと思う。
生来、真っ正直な義理堅い人間である。
警察まで呼ばれるとは意外だったのであろう。
以後、「ぐうの音も出ない」一段とひかえめな、働くだけの生活に沈潜することになる。
世の中を見回せば、九州発の出郷者たちが大勢著名人や実業家や大物政治家となって日本国社会で活躍しておられるようである。
渡来の人達と同じく、お仕着せの「みそぎ」の儀式を卒えてある種生まれ変わった方たちなのであろう。


母の兄は二人いて、長兄は戦死、次兄はシベリア抑留後生還、長く農家の働き手として黙々と家に勤める人生を送って、前に亡くなっている。
司法書士として小国村に事務所を持っていて、ちょっと「書く」と稼ぎになるからと言っては、孫達に小遣い銭を恵むものであった。
自分には何の娯楽趣味も与えなかった。
母の実家では飲酒歌謡の類に近寄る者はいなかったが、煙草酒を少々たしなんではいたようである。
佐渡稚内に旅行している。
警察官として岩手県内を歩いていて、標準語言葉を使い、物腰柔らかく他人と応対する人であった。
旧家の長として、町議に推されているが、なぜか「おっかないもんだ」と言って、一期で辞退している。
実はこの人も生まれ換わった人で、昨年7月31日に亡くなられた中国人の、かつて「銅鑼」同人日本語詩人こうえい氏の子ではないかという情報がある。
こうえい氏は南支豪家の出身、母は日本人で神戸で暮らしていたようであるが、東京の学校に進学、草野心平の「銅鑼」同人となる。
ここに宮沢賢治がいた。
早くも同人間では、賢治の未確認巨大恒星並みの実質に震撼するものがあったようだが、草野心平でさえ生きて賢治とは出会っていない。
こうえい氏は詩人を辞め軍人となるため士官学校に進む。
その卒業旅行先に花巻温泉が選ばれ、その途次、まぼろしの「冒険」詩人である療養中の宮沢賢治を見舞っている。
その後中国に帰り、確か山東省あたりで日本兵の復員事業に携わっていたようである。
その後はずっと長く中国の故郷に勤めていたと思われるが、何度か日本を訪れていたようである。
千葉県の海岸辺りで撮った写真の姿が、稚内の石碑前で撮った母の兄の写真の風貌とそっくりであった。
母の兄は老後呆け出して、常に気持ちが落ち着かない苦しい状態に置かれ、帰る、帰る、と家の中にいても悩ましいこころを表現をし続けるのであった。
世間を密かに見ていたのであろう、「国民がだめになってきたな」とつぶやくことがあったという。
実際の状況としてすでに一般国民は、家々の下の穴も知らず、勢ぞろいした薬物入り味噌業界以下の食品業界も知らずに、落とし穴日本国土の上に、焼かれるのを待っている尾頭付きの魚みたいに置かれていたのである。
すでに全国民に対して何かができる状態であったといえよう。
構えとしてすでに由々しい事態である。
母の兄がそこまで見抜いていたとは思わない。
「日本国民には居壕がない」 国土一帯的な組織網を眼前にしていない、ということであろう。
復員兵として中国人の人が生まれ換わって出て来たという話は、近辺でもいくつか伝え聞いている。
コピー係りの少年時代にもそのような人との出会いがあったと思われる事がある。
母も自分の兄が別人であったとはつゆも疑っていなかったようである。
兵隊に行って何年も経ってからでは、少し違うような気がしても、しばらくするうちに本人で当たり前に思えてくるのだと思う。
健一の場合、新兵訓練何週間かの後の出会いであるから、ずいぶんやせてきたもんだ、と最初は思っても兄弟姉妹の眼をだませる状況ではなかったろう。
健一みずから人を欺く話だとは思っていなかったのである。
ところで、復員兵を目撃した話に、倒れた同志のポケットに手を入れていた、などと、状況によっては一般的な状景を殊更に取り上げて、辱めるみたいに後に残すという作為策略的な系列のものがある。
遺品を捜すというのは同志として当然の務めの姿でもある。
傍目で見たぐらいでは分からないことが沢山ある。
その場面にいても。
ましてや今、誰かが話したという筆記のメモを読むぐらいでは。
とにかくある種の組織系統は、子孫というものを客観性を欠いてもけなしたい傾向にあることは確かである。
そしてその悪ネタを何回も使って、人の世をからかおうとする。
だから今、客観的歴史情況をも含めて反省して下さる、イギリス人組織の先生方の応援はなくてはならぬことといえる。
演出的な因縁イメージに、関係者本人もさらわれてきたであろうが、傍らの人達の中にも、日本国に未だあったことのない新種の偏見にまみれてしまった人がいたようである。
遺品のことなら、どうせ亡くなってしまった同志の無念を晴らす意味でも、その遺品を使いきってもお国のために戦い続ける、というのは戦場のモラルである、というのは修飾語に過ぎないことではないと思う。
無駄にするな、ということであるが、無念の同志が増えて遺品が多ければいい、などという馬鹿なはなしではない。


なお、この母の兄と同姓同名の、小国通りの昔話と伝説を採集し執筆された先生がいて、「書く人」の宿命を代わって果たされたが如くである。
田吉二、という名の方であるが、小国北方の古くからの入植者達の人を縁者として全国的な著名人が輩出しているそうだが、先生もその中のお一人なのかもしれない。
いや、「公務」の人として地域に入った人の関係者のようだという情報があった。
小国たりとも、「運動」人脈の賑やかな地域である、ということが分かる。