思い出し事


中学一年の時K病院に入院していたことがあった。
珍しいピンポン玉みたいに落ち着かない子供患者であった。
同室に今思えば中国人の方ではないかと疑われる、シベリア帰りのおとうさんがいて、話し好きでいろいろと抑留時代の思い出話などを語って聞かせてくれたものであった。
ある時、国旗が日本国土包囲陣及び構成の明日を目指す趣旨の旗印である、という信じられないような、内部情報的発言があった。
戦争の怨みの深さにも触れた、ある程度の警告的な配慮からの言葉であったと思われる。
真実としても、イギリス組織の背景指導があっての事であったろう。
旗としては一時だけあった、という報告を届けて下さる人がいる。
主には、明治以来のいかだ組みの日本国土であったのだろうか。


父はあまりに静かな人であったが、自ずと身だしなみがあった。
40近くまで山中の農家の長男、作男みたいな専農の経験しかない人間であった。
余程の事があって鹿児島から渡ってきたのであろう。
こんな生真面目な勤勉な人は見たことがない。
隣の徳川氏の子孫の方たちも、それだば言える、とさすがに心寛やかに客観的に言って下さる。
嘘かもしれないが、皇室の方がなぜかこの家に関心を持たれていて、密使的に玄関にまで及ばれた事があったという。
健一陽子の謙虚至極涙ぐましい生活努力の毎日にびっくりして、疾走無辺方に帰られたという話を聞かされたことがある。
何か違う、ちょっと違う、というのでなく、まるっきり逆みたい、という所はどういうことなのだろう。
猿公みたいに、丸々と肥えてそっくり返っているはずの者が、かえって栄養不足気味で、かたわなくらい内向的で、質実に倹約生活を続けているだけとは。
基本的には、江戸の世にも、アン女王の遺言にでもあるかもしれない、最後の書面レシーバーに当てられていた家という事はあるようだ。
だから祖母の父親に当ると言われている人は、額鏡板の如くして、勧進帳のように記憶力のみにて長々と身の上を諳んじて、その能力を示してこなければいけなかった。
記者でなくてもいい、配達員としてのアンカーマンぐらいのことではないかという人もいる。
私自身新聞配達員を高校を出た時から勤めて経験してきている。
いづれ、運動を他所にしている者という待遇であった。
ヨン、とよく呼ばれることがある。
英語のyonという単語の暗示がある。域外の者。上=ウエの者というのも、韓国語ではヨンの者という意味である。
アン女王が生きていたら、自分の息子のように喜び、ダンスの相手にしたいような背の高い、惚れ惚れする無慮数の御子達と比べたら、あまりに情けない貧しい、歌もうたえないような晴れ晴れとしない者共であった。
こんなもの世に(他に)あるか、と言われていたというぐらいに。
せっかくの美しい少女がこんな病気で変な者に寄せられるのか、と女王様のような人が昔怒っていたという話があるが本当だろうか。
八卦によって、女王の愛される子供たちというのではなかったようだ。
最後まで、運動を他所に振ってがまんして生きて行く、やせ貧民という実態であった。
日本国民としての律儀なリーガルシップなら、天皇陛下様にも劣らない父と母であった。


父は30代で脳卒中に倒れ意識不明、徐々に意識を取り戻し、学習がてらに、やっと看護婦学校に入って勉強している長女篤子宛に、長い手紙を書いている。
最後に、自分の娘に向かって、貴方の最良の友と、自称し署名している。
あるいは、鹿児島において、先祖が、地域での最良の友同士の間柄であったのかもしれない。
姉の言葉で思い出すものの一つに、西郷輝彦が「がめつい奴」で名演技を披露しているのを観て、「(とうとう)らくだのシャツ着て出て(熱演して)らや」と感慨深げに言ったのがある。
失礼ながら、西郷輝彦さんは、(高橋英樹さんもそうだという)前代に、薬物障害者として施設にでも入っていたような、苦難の経歴を有していた方だと聞かされたことがあった。
そんなこともあって、一般的に流れていた感嘆を、姉も口にしたのであろう。