姉福岡篤子はなぜか


口が聞けなくなって、泣くばかりのことがあった。
看護婦学校に入るのにも、父が倒れて療養中で、小卒の母の下、進学に一銭も出せない身の上の時、福島に学費も食費も要らない学校があるというので、そこならと受かる自信もなく受験に行ったことがあった。
面接の時、看護婦を目指す理由を聞かれて、父親が倒れた事をやっと口にしてただ泣くばかりだったという。
勉強も優秀というのでなかったから、面接で受かったんだ、と話していた。
高校のときも何か疑われたことがあったが、教師に訴えることができなかったことがあったような話をしていた。
どこかの遠足に行った時、農業とまま炊きかの手伝い仕事で忙しい母が、あわてて作った海苔巻き握りの海苔が、焼いていなかったらしく、どうしても食べれないで、困ってしまって独り泣いてしまったことがあったという。
何かの式日に、人並みに着物の用意も知らないで、恥ずかしい目にあっていないかと、気をもんでいたことがあった母みずからが聞かせてくれた話である。
母も料理も知らない働くだけの農婦で、その頃、海苔を焼くことも知らなかったのかもしれない。
自分の弁当など、毎日大根のつけ物三切れ以上の物を乗せていなかったことは、見もしないでも確信できる。
胸が痛む。無念である。
姉は、看護婦学校を卒えてせっかく看護婦になっても、二度もくもまっか出血の外科手術を受けて、その後は回復療養の人生を送るだけの者となっていた。
そういう姉でも、なぜか回りの人たちの間で、上の家では篤子だばいる、という信心があった。
父も亡くなり、母も呆けてしまい、何かの集まりでいきなり家を代表して挨拶を頼まれた時、人生経験のない、精神分裂病の長男のコピー係りはふさわしい貫禄も言葉の用意もなく、姉が長女として進み出たのであるが、何かで申し開きを求められて口がきけない者のように、言葉がなかった。
コピー係りなぞいなくていい、と言われる情けない場面である。
女だてらに、日本語もできないで、民族風に小腰を屈めて、被害妄想のたけり狂っている神国の村に入った女性がいたそうだ。
何を聞かれても貝の様に口を塞いでいたという。
私は貝になりたい」というセリフがあったが、姉はそういう女性の姿を負わせられていたのかもしれない。
上の家で初めてまともに外で働き、給料を貰った人であった。
何回かのボーナスを平凡社の世界大百科事典購入に向けたようだ。
今その大百科事典に大分お世話になって、このダイアリーを書き続けているのである。
各項目本文の執筆者が全部、その分野の日本国における第一人者であるのが、この事典の特長である。