wanton, 習字、能の人、パソコン活字


「逃亡者」の配役スターが当地に滞在していたことがあったらしく、かの者をwanton
と評したらしい。
性欲にだらしないという意味ではない。
貧乏なことがあって、出来上がっている他の子弟達と比べるとはなはだしく見劣りがする。
時間表がない、予習復習を規則正しくする生徒でもない、トイレッタリーが身に付いていない。
町の中で山育ちである。
母を責めることはできない、昼食もおろそかに小走りに急いで、田の水を見に帰ってこなければならない農婦であった。


西洋人が当地に滞在していた例として他に、戦後すぐにロシア人が、岳村の岳側沿いの地中基地にいたという事があったらしい。
ドクトルジバコの配役にその土地の雰囲気を出しているような人がいたり、似たような完成したばかりのダムのシーンがあったりする。
「明日にかける橋」の橋を見上げるラストシーンも、岳川をロケーションに模しているようだ、と思った事があったが、丁度その地中基地の窓から見上げたカットであることが分かる。
岳村のすぐ裏の真平らな岡も、映画のロケーションの風景としてよく擬されている。


ところでかの者は、時間(予定表)がないハックルベリーであるだけでなく、実に字が拙い。
人間が壊れているように粗末である。
その字を見たら大概の人が軽蔑してしまう。
こういうことは、指導者が用意した、チなる青年の半生をまねたものといえよう。
学院で習字学習の遅滞児であったか何かで、教師に恨みでも持ってしまったのかもしれない。
君は手のために世に出られない。
ダンダン、と線路沿いの理髪店で銃を撃たせられた時にいた二人の女性の一人が、背の高い書道の先生であったという。
選良の整髪もなく、字も過激に粗笨。
口はなくても字がある、という逃げ道がない。
日本語もできないで、外国を歩いてるや、とは、チなる青年の人生の最果てであった。
そんな単独歩行者は2,3人しかいなかったであろう。


そうして、指導者としては、村上の家にいたチなる青年の子供を、校長先生ぐらいには育てる用意であったようだ。
ついでだが、その青年はまた、幕舎内で何かの皮剥ぎを腹に巻き、薪能の役者のように薪火の光の中で、舞のつもりも術もなく身投げのようにくるりと身を翻して、哀れにも能映画の仕舞シテとして出ていたという。
「くるっと回ったっけ」
これが「能の人」という意味である。
こうして、この愛の十字架作戦は、毛もの巻きの浮浪児上がりが、にゃっ校長先生の坊ちゃんなどにまで生えやがってと、まず生やしてから脅しかかる仕掛けであったようだ。
チなる青年は最後には、日本語もしゃべれずに山中を歩き縄を掛けられ、被植民地の青年として獄舎内で水死体で上がっているという。
母も姉も不幸の極み、振り返る家族の一人もなく、生きてから死ぬまで人間らしい心温まる時を持ったことのない生涯であったろうと、悼み想像する。
その青年の伝えられる子は、村上家の長男として19歳まで誇らかに生きておられたようであり、独学でちゃんちゃんと試験に合格してきて教員の資格を得、終戦間際にはさぁ、という態勢であったようだ。
明日学校の先生に本当になれるんだ、という開けた将来を手にしている実感で、胸がはちきれんばかりであったろう。
近くの水上学校で実技を研修してきているが、同窓生の中に有名な小説家になっている元教師の方がおられるという。
鹿児島の新兵訓練で、海水面飛び降り事故で溺死してしまったという情報である。
一応ポジションであるから、つなぎにも用意された人が、増田健なる人であろう。
自己を犠牲にしてもあくまで建設的な人で、作男に徹した人生であったと言い切れる。
母も完全に信頼し尊敬していた。
しかし、結局指導者の目論見の校長先生どころか、人並みの伍長クラスに並ぶ者も一人とていない、完黙完敗続きの病みたかりの家となってしまった。
指導者を裏切り、指導者に捨てられてしまったということになるのであろうか。


 バソコン活字の獲得


早くに、タイプライター、ワープロと、一般に活字が普及していたのであるが、人生不如意のまま、文章を書くゆとりもなく、そのような科学技術機器に熟達する落ち着きも得られないでいた。
しかし遂に3年前に、パソコンによって活字を手にすることができ、事務員にはなれたのである。
しかし、事務員を越える事は永遠にないことを保証する。
コピー係りはもう、これ以上産まれ様がないほど産まれている。
選挙の為の人気勢力は無用である。