はるかな記憶の村上家の貫禄


村上の家の「当のもの」にいる者は、伝説をそのまま受け入れれば、「まるがれて」産まされた不倫の子が武蔵の長子となってから、村上家の血を引く者でなくなっていた。その者の子は丸っきりの外国人の子で、生まれたと同時に入れ替えられて、村上の家に入ったことになっている。更に終戦直後に、鹿児島出身の健一が送られてくる。その間には、近隣の分家筋の家から後夫が迎えられていて、健一の養父となって、「当のもの」の位置に座っていたのである。健一の子も作戦的に他所から送られた者だという情報がある。


村上の家は福岡方面から長島町に入れば、町一番に構えるような所にある。
大河周辺の街道筋は江戸の世に作ったもので、一帯は原野であったらしい。
木も一本もなく、海のように平らかで、春先には陸蜃気楼が立ったものだと言うのは、そこら辺の消息を語っている。
川東丘陵麓にも古代の街道が通じていて、点々と古い寺院の跡が見られるが、日本国中央脊梁部の山裾こそ、江戸の世までのメインストリートが繋がり合っていたゾーンなのである。
この間訪れた岩手県の、一関平泉地区を少し巡っただけでも、江戸時代以前の賑わい古家が何処にあったか十分に思い知らされたものである。
であれば、福岡地域で一番早く水田が拓かれた集落の隣、一山越えた所の岳村も、平野部の開発に先立つ古家と思うことができ、その貫禄を示してきた時代の名残を所々に見つけることがある。