チなる者は孔子様の裔であった


 昨日の記事をここに再記する。
 

 村上家の者といえば何かしら、差別大賞の者であるべく、差別原点の者であるべく思い切って軽蔑されてきたものである。自分達は遺伝子がいいと見下して、こやしじきの如く卑しめる風潮があった。
 実際どこの世間でも景気のいいことがあって、おらだだばロクタな者でいる者など一人もいない、こいづらだばロクタな者になった者もいね、と誰でも思い続けてきたような百五十年であった。どこのエイシアンでも惚れる者がなかった。軽蔑音ばかりけたたましいことがある。
 気味が悪い、という目にまで会わなければいけなかったようだ。侵入者を素朴に気味が悪いと言った言葉を返されたようである。


 K市に移り住んだ頃に、隣の家の同級生から何か先生してらのだな、と確認するように聞かれたことがあった。ここは割合と隣家の人たちで管理するような環境であったようだ。
 ヘンリフォンダみたいなチなる者の父親は仲耳と呼ばれていたという。中耳炎が流行った事があった。仲耳もその中耳炎でか、聾唖者ではなかったかと疑われる。しかし国定忠治ではなく、なんと本物の孔子様の子孫に当たるというので、自覚的に仲耳と名付けられていたようである。
 鹿児島の人と出会ってか、出来た子供はまたヴィヴァルデイの子孫でもあったという。
 それでは孔子様ではないかと、井上先生がわざわざ向き直って下さった事があったようだ。本人には疎い事であった。
 ところで、村上家の修が「上を向いて歩こう」のモデルとなった人であることについて書いていた。コピー係りの3年間の高校通学というものは、若き日の修の心を蘇らせたものであったと思い返される。奨学金の申請用に写真が必要であったが、写真館に行けず同級生の好意で屋上で撮影してもらったことがあった。顔も修に似ていたが、苦悶にやっと息を遣っているような姿が闇から浮かび出て来たような写真であった。いつの日か人に気味悪がられずに皆と手を握り輪となって、一時でも幸せな学校生活が送られる事を。
 こういう者を風上に置けというのな。
 「いつ幸せになって人と手を繋げる?」(百五十年も経過して)
 いつかの者だ、いつかの者だ。小手も放した事がないがまだ使えるのか。低能念ぐず念悪念馬鹿にならないくらい詰め込んできた。毎日毎日。生まれ出ずる泡のように途切れなく。不可能だな。
 東京に出ていたって、毎日毎日雑踏を用意しただけである。行き詰まり首吊りを本願としているように。
 いつかの者だな。「オラは死んじまっただ」 しつこいものである。
 侵入団30万人も、ゼロの者は見限っていて、早めに極悪利用を重ねて片付けてしまう企みもあったという。入れ替えてからどんどん食うべや。英組織の仕着せに過ぎない。
 関心の深い申女史グループのご教示が多いブログ内容であるが、なぜ校長先生までの待遇なのか。地べたの者で素朴に志操堅固になっても困るし、世間知らずに理想主義に固まられても困る。なにしろ孔子先生の子孫である。用心深く、最後には国を売るようなご都合主義者になってけもの使いに使えるよう、狡猾に計算され測量された必然の程合いであった。