明治の代には野宿乞食、らい病患者が溢れていた(戸籍問題)


 場合によっては、横浜辺りで、浮浪していた人から戸籍を拝借した人もいたであろうと想像される。都会には身寄りのない路上の浮浪者、一人住まいの病人、乞食等が大勢いる。砂の器松本清張が、その記憶を、大火災の被害者からの無断拝借のトリックとして使用している。
 非常に考え易い自然な推理である。身寄りのない浮浪人でなければ、そっくりさん技術がない時代、親類隣人同僚友人に必ず怪しまれて、不可能である。
 聖ロカ病院には大勢の結核重病人がいたであろう。らい病患者の園から多くの子孫が出てきて活躍しおられる、という話を古くから聞かされていた。園内結婚で生まれた子供たちなのであろうと思っていたが、故地を追われてしまった人達の新戸籍獲得の事でもあったらしい。今報告してくれる人がいる。戸籍拾得のチャンスは、明治の代には求めればすぐ見つかるほどに社会の隅々に転がっていたであろう。思えば、馬鹿にならない戸籍供給のキャパシティが人の世に潜んでいたはずである。
 いくばくかの金子でも差し出して、買い取ると言ったら大喜びであったろう。
 大川端には都会の河原という地理事情もあって、野宿人が多かったであろうと想像される。捜せば、迷いもなく自分の住所戸籍を預けてくれる人は少なくなかったろうと思われる。乱暴な事をしなければならないという状況でもない。
 渡来人も同様、横浜、大川から上って来たと考える方が可能性が高い。余程の事でなければ、他の途では地縁血縁職場仲間の人の眼を欺けない。


 前に可能性として一村単位の事を考えていたことがあったが、どうしたってどこか近隣周辺の接点から煙が立たずにはいられない。ビデオもない、声から顔まででもそっくりな人など一人とていなかったろう。それでも完璧な亡失状態の日本国土である。あり得ることではない。