個人的ながら父親健のこと
母親の願いは児の学問よりも健康であったようだ。父親の代の事か、バッハとかカントとか言われて、謀られたような難境の中、被ってみるか、と決心した事があったのであろうか。まさか成就するのは自分ではないが。組織の課題のようでもある。
寡黙のようで、何を考えているのか分からない、と傍から見られていたという。江戸時代中は藩の郷士身分グループに属していたようである。
父が亡くなった時に送られてきた短歌がある。当時、K工業高校の先生が、大笑いさせて、という指示と共に届けて下さったものである。
短歌界に入っていたことがあった。革命的に、この地下組織の世の中の事について眼を開かせてもらった。先輩方の一つ一つの短歌が作者の意図を超えて、運動の背景を不気味にもまた不明瞭にも開示している。今思えば組織の奇跡的な日本語筋力がこの場面においてもフル回転していたのかもしれない。短歌としては情報的で、芸術的にはやや青白い。
驚くような組織の背景に気付くと同時に短歌通信を辞める。全ての短歌を忘却してしまったが、この父の挽歌だけはコピーが残っていた。
倒れるまでリヤカーを曳いていた父よ質実の精神の不動の姿よ
享楽を外にして浮かれて乱れることのない身嗜みのよい父よ整いの父よ
病と不運に見舞われながら絶対に人生を投げなかった父よ崩れ落ちなかった父よ
ぶらぶらと歩く閑暇を許さずに逝く父よ 父はもっと広かったのだ
のぞき見のような好奇心と虚栄心のない父よ 人を蔑まぬ父よ
強欲淫猥詐欺窃取の乱り世にきまじめに地道に物静かな父よ
浮華の世に黙然と耕し備える自前の父よ 父は籠城していたのか
粗食の父よ忍苦の父よ雨にも風にも雪嵐にも耐えて自転車を漕ぐ父の姿よ