みちのくに、ごど、という単語があるが大概

          
 屋敷跡の杉林中の写真。下部の青い物は、カメラ入れに携帯している小袋。母の姪に当る人が切地でよくいろいろな小袋を作ってくれたものであった。経本入れに母が重宝していた。何か「地デヂ」するのだろ、という意味なのかもしれない。国防の者が袋を残した、というその一点を突いたからかいに由来したと思われるいろいろな見聞事例がある。古銭を詰めたどっしりとした布袋が神棚の下に置かれていたのを見つけたことがあった。見慣れないものであったので、S村の住吉神社の一つに奉納してきたことがある。あるいは国防意識の曽祖父はその小袋を裏の鎮守様に奉じて、国の治安地域の安全を念じたのであったのかもしれない。曽祖父は国の危機を感じて生真面目であった。そのとおりに今こそ国家の一大事となっているではないか。栄養が付く家付かない家とか言って、ブタみたいに肥えて偉くなればいいような事を言っている。人を蔑んでいる。

   
  




ごどなす、
という言い方で使っていたようである。自分は堪え難く罪深い、という意味で、わりわり、というのもある。必ず二回繰り返す。わりなく悩ましい、に近い。worry。
 今北日本四県そろって縄文時代遺跡の世界遺産指定申請の動きがあるという。一帯にストーンサークル遺跡が散在している。大まかに見て、小樽辺りが上陸地点で、点々と南下した足取りが見て取られ、東北に入ってからは、配置したように居住地を展開して、お互いを意識しているような間隔で遺跡が見つかっている。遺跡の数は限定的なレベルである。
 ごどなす、というのは石を敷き散らすという意味ではないかと今教えられた。あなた方は誰か。ごと。ごど?  そのごどみたいに一面に散らす、と。
 スウェーデンバルト海上にゴトランド島がある。 知られている最古の原点はスウェーデン南部。 西洋史で有名なゴート人である。デンマーク、オランダに渡り、ストーンサークル時代になぜか一群がポーランドのヴィスワ河に移住している。キュリー夫人みたいな顔立ちの人もいたであろう。眉が黒々として眉丘にはっきりとした特徴のある人達であったろう思う。たとえば太宰治佐藤愛子のような。
 ゴート人はその後、東ゴートと西ゴートに分かれ、スペイン、イタリアとヨーロッパ中に侵入し広域に王国支配する。しかし少数民族経営の矛盾で期間は短い。ゴシック文字のゴシックはゴート人みたいだ、という表現に因るという。
 それ以前東ゴート人は黒海北岸、ウクライナ南域に暮らしていた。匈奴フン人の遠征に遭い、370年東ゴート王ヘルマンリックは敗北する。この時、先祖が遥か昔に渡って暮らしいると伝え聞いている東の国の事を思い出して、大民族移動の発端として一気に東を再び目指した一群があったというのでは遅すぎるであろうか。
 日本国史書には何の痕跡もないことである。ただ東ゴート人というのはその時にはキリスト教徒であったのかもしれない。黒海西岸のアルメニア人は300年代にキリスト教を国教にしている。しかし秦氏達と同然に考えることはできない。
 OEは、オランダ、北ドイツ辺りでアングロサクソン人とゴート人が使っていた。
 やはり南インド経由で、後発巨石文化民としての渡来の方が納得が行き易い。九州王朝以前に、日本国土に水田農法と金属農具をもたらし、あるいは物部氏などとして勢力を張っていたものと想像される。石見、石上と石に縁があるようである。
 

 西洋西端アイルランドで、少なくとも一脈仲間筋のゴドーを待っている、という図形であろうか。