昔は暖炉裏、室内が多かった(Cohen, 金)

qhnjt0722007-06-21


 ベースマントなどと書いているが、そんなに遠くに届かなかった。暖炉のコオロギといったようなものであった。また女王様の乳首をいただくようなものだとも書いているが、根拠がない。下卑た印象を与えかねない早とちり表現である。


 ドイツでは、世界史の大有名人の先祖が、庭の木の下の辺りから光を飛ばしていたというが、その館の住人がイドだったという。フォンイン、リングサークルもイドだった。スタートから主体者というのではなかったのかもしれない。仲間をエントフェルネしていたというが、自分達の意図計算があってのことではなく、そのように置かれていたということのようである。「それだば言われねのな」と陰で囁かれていたという。地下仲間の結束力であろう。この時すでにアンド運動の時代であるから運動早期の事情ではない。


 1500年代、堺から入って専ら京都で仕事をしていたのであって、堺市中で働いていたのではない。信仰心などない人達で、すでに衣などペテンで身に着けていた人達がいたようだという報告である。