宮沢元総理が亡くなられた お悼み申し上げる



 昔、村上家の姿なぞをのぞき見たことがあったらしく、「まめだな」と評しておられたという。
 毎日、病苦などがありながら、落ちる日なく朝早く規則正しく勤勉質素であった。「そこまでやるの」と言うほどまた夜遅かった。
 

 前N大臣も健一の人生の一端に接したことがあったらしく、「あれは誰でもいいというのではないのだ」と評しておられたという。その分窮屈な人生を送らざるを得ない。


 近隣のSさんも頼まれて台所を見てみたことがあったらしい。「オラでぎぎね」 あまり地味だや。毎日遅れた工夫してらや。「意外と金がねぇ」生活をしていると西洋人の人達も驚いていたという。


 どこの集落に置いてもどこの家並みに置いてもどこの縁故ラインに置いても、この家は一戸だけというほど何かしら珍しい陥没家であった。「なんだや、生きでらが」 奥羽山脈中の唯一の切れ目、仙人の窓の凹みのように。
 真面目なのに激しく軽蔑される事もあるような宿命であったようだ。
 たとえば「恥知らず」と言われたという事は、いつまでも世間もなく貧しい姿で生きている、という意味であったと思われる。「見てられない」
 

 K市移転直後、市民運動グループ内で投げることに決定した事があったようだ。挟んじゃえ。見たことある。アカプルコだじゃ。その遺伝子見限った。運動始まって百年だ。戦後の世になって面目も無いで生きでらや。なんとその上にも、亡くなった人の戸籍に座ったノミだって言うじゃないか。
 戸籍には一切無いことでありますが、その伝で言われるならば、健一如きは鹿児島県民の身分から国内移動させられた者に過ぎません。日本国民の戸籍を飲み込んだ明治の代の侵入移民というものがなかなか多かったのです。
 福田元総理が日本国に悪いことが何もないように言っておられたという。N君がY町辺りと関係を持っていることだけがけしからぬ。
 皇室関係者の方達も言っておられたという。イミン。しかしせいぜい400年も前からの鹿児島県民についての見聞程度におられたのではなかったかと推察される。明治の代に大量の渡海集団が組まれていたとは、お釈迦様でもご存知の無い世の中であったのかもしれない。
 そして、自らそのイミンであったりもする世の中である。