組織はどうしてあくまでも残虐趣味を志向するのか

qhnjt0722007-07-13

 南天が花を咲かせているが、あまりよく見えない。



 個々の東洋人の事件などを仄かすのであるが、貧しい東洋人など遊び放題に巧妙に操られ、乱暴に振り回されたに過ぎないと断定できる。
 運動は早くから、主体者として指導者とイドとの連繋で進められてきたものと推量する。
 リヤカーに乗った二人の親類縁者に、お早うと声を掛ける、ある画面を思い出したが、そのヒントは、大戦以前にすでにアメリカの大物大統領が二人も出ているよ、ということであった。
 暴きとはあまり趣味のいいことではないが、その背景には常に人間の不法地下労働というゆるがせにできない現実が潜んでいるのである。
 この地下組織には掲げる精神がない。だから、先祖の過ちばかりでなく、顔が似ているとか、地名が似つかわしいとか、人名が関係者の発言とそっくりであるとかで、スターになる人を選んでいることがある。
 この関係者の発言という言い訳採用もあったのかもしれない。けものこ、獣の如くといえば悪魔である。獣、じゅう。しかし、単純な日本語の洒落遊びから残虐主義がスタートしたというのは、もしいくらか正しいとしても皮相的な解釈であろう。ある時の、暇人であり趣味人である Great Architect の個性から運命的に発展してしまったものと思われる。相当早い時期であろうが、何かのきっかけで、けものをやらねね、と恐れもなく突き進むことになったのであろう。
 何の民族の人であろうが、一般貧民困民がなぜわざわざ自ら、何の役にも立たない、残虐悪魔性だけを目指しているような大災害大被害計画を担い続けなければいけないのか。命令もなく、自ら計画を立てて遂行しているというのなら愚かな事である。自分も汚れ、民族も汚れる。
 指導者の心底をまさぐるのだが、日本の神社で一番目立って立派なものは賽銭箱であることが多い。奥の御神体は鏡で、拍子抜けしたようにその実体と重みを感じ取りにくい。この神社のご神体にもヒントを得たのだと思う。主宰者はいない。獣心鏡だけが馬鹿に忠実に神殿に奉られている。思惑完全犯罪の遺言であるのかもしれないが、やればやるほど何かにいいということではない。身代わり、という意味に過ぎないのではないか。悪魔を重ねるほど誰かに善いということは一切ない。
 ここでは、悪魔主義の動機、真意の解釈は簡単である。趣味しかない人間の遊戯に過ぎない。そして最初から、どこまでも、犯人は自分ではない。自分であると公認されることは予定にない。
 だから悪魔主義が極めて鋭角的に尖らされているのは、人の所為にできるからであって、何かの深い慮りや達成すべき目的があるということではない。極め付けの馬鹿をやればやるほど何かの目的に沿うということは一切ない。身代わり完全犯罪の遺言を執行するとしても、尖れば尖るほど誰の名誉が救われるというのか。根底的に最終的に趣味人の戯れでしかないということを確認しようではないか。
 また世界大に描いているような実際の傲慢搾取犯行の人間など人の世に実在していない。