このコピー活動が死んで日本国の盆供養があり得るだろうか

          
 エンデの森。飯豊地区。小丘であるが一帯では唯一の突出。宮沢賢治法華経を埋むるべく指定した山では一番丈が低いか。三角形的姿に注目してもらいたい。



 いつかはこの人食い活動が収まるということがあるのかもしれない。
 しかし亡くなった多くの人の無念晴らしが日本国史にあり得るだろうか。
 亡くなった人一軒一軒の家族と一人一人の名前。奪われた財産、不動産、貯金、年金、給料。
 その総人数と総額を調べずに気が済んでいられようか。
 等しく人類の歴史に残るという永遠の幽鬼祟りを受けて当然である。
 言い訳に使われても、このコピー活動は止むことができない。
 明日に盆供養があると思われない。
 弔いもなく、犯人にとぼけられ犯人と友達になって暮らして行くしかないのではないか。


 コピー活動も犯人に触られてはいるが、強盗殺人問題を扱う場合、ほとんど日本人は欺瞞的にその犯人に息を掛けられ犯人に肩を掛けられて動いている状況である。
 顔を見ても分からない。すでに大人数が生まれ換わっている。犯人の事などを言ってうまくすり寄る。西洋人から日本人を欺こうとしている。
 コピー活動は、時折誤情報を混ぜることがあるかもしれないが、犯人のペテン気にだまされたままであることはない。
 ストレートに暴き続ける以外の精神が生きていることはできない。
 世界中、真正面に公然と長年月に渡って犯人に向かい犯罪を訴え続けている活動は、今の所他にない。
 真実であるから、正当な幽鬼祟りの報いに、平等に、その大量で冷酷な人食いの罪が永遠に歴史に留められることに役立っているばかりでなく、今直ぐにも読んだだけ国民が明るくなり本当に強くなれる情報が届けられている。
 国民を誤らせる事のない唯一の報道活動である。
 そもそも、人間たるもの、体中嘘偽り欺瞞をくっ付けたような、まむし毒まむし穴闇討ち作戦の誘惑に引っ掛かるべきでないのである。