指導者は始末ある者であった


 無責任な者ではなかった。人間けじめがなければならない。食うだけで後の事を考えない者とは当然にも頭から違う。


 上の家における「立士式」というものも、せいぜい日記警備員を目指したものであることが今になって知れて来た。親戚にも入っていた一族のように、殿様の遺伝子を受け継いでいるというようなことはない。単純に高上がって位に就けばいい、という目論みではないのである。


 指導者の感覚ではたぶん世の中は発展するものではない。この地下活動も One table, one plan の一山の仕事であって、最高の山は過ぎてしまっていると考えられる。全く放恣に増殖して来たものではなかった。


 悪魔主義は日本語に根拠を持っている。獣二分にやれ。To be two beasts. Vainly too much. その一言があったと推測する。
 自ら悪魔趣味があるが如くやれ。無益に無駄に、悪名が残るばかりに。 悪魔の根源ここにあり、と分かるように無目的なばかりに。 Be it just your own desire. 歴史に残ってもらいたいのである。
 指導者の冷静な計算に、「エンジン作り」というのがあったが、これは「動機作り」と名づけられる企みである。


 この期の全ての過激な悪魔主義は、単純にも、この「動機根源作り」の為にあるものと見極められる。
 実に指導者は、計算のない事はしない、冷静理知の人であったと今こそ感じられる。 無闇で埒もない強盗因業にまでぬかる堕落者は私ではない。