想像であるが、半島を兎と見立てたことと、古代の二王子が聖王に会う為に大和を訪れたこととは、古代史設計において繋がりのあることであったのかもしれない。 

 和邇氏を母とする皇子が兎道の名を冠し、渡来人王仁を師とし、皇位を譲っていること、更にはその名に由来していると思われる宇治の地に、平等院が建てられているということ等の一連は、もしかしてすべて因幡の白兎伝説と関わりのあることなのかもしれない。
 百済国とは最後まで同盟関係にはあったが、国際事情からどうにも立ち行かなくなったというのが、一つの古代史の結末であったと言えようか。