ある種の近代詩がわざとリズムを外していた事は、無邪気な文芸の試みに過ぎないことであったか。

 わざとした、ある種の工作活動であったと推理探偵できるようである。
 このような工作的文化活動が毎年の行事のように賑やかに繰り出されてきた日本国の実態であったと、振り返り想像される。
 ところでこの韻律崩しの韻文であるが、悪いかというと、玄妙である、あるいは新奇で茫洋としている、という実価は付けられよう。
 この玄妙さは七五調を崩しているというだけのことではない。 宮沢賢治には決してこのような狙ったような調べの不存在というものはない。
 寡聞に過ぎないが、英語詩の朗読でも、わざと何かの高踏的技でもあるかのごとく、韻律を外して読むという流儀が、英文学界に存在していたことはなかったろうか。