中国羞恥心の原点を探り当てる。

 始皇帝の父子楚と呂不葦との初対面にあったと推定する。
 子楚はその時ぼろを身にまとっていた、とまでは歴史書に伝えられている。
 映画でも使用人か奴隷のような身なりで登場する。
 ここでの推定では、この時子楚は家畜小屋の係りとして、小屋を修繕中なのではなかったかと考える。
 労働中の激しく汚れ乱れた姿を通行中の都会人のような人に眼を止められ、声を掛けられても、恥ずかしいあまりに答えられず顔を上げることもできなかった。
 汚れた形の労働者の身の上に甘んじていたとしても、とにかく一国の皇太子の公子なのである。
 長靴を履いた労働者の身なりを恥じる羞恥心であった。
 儒教の伝統でも労働を低く見るところがある。 孔子も同様に若い頃、生活のために家畜係りの仕事をしたことがあったと伝えられている。 しかし子たるものは労働者ではいけないのである。 読書人か経営者に上るのが尊敬されるべき人生の経歴であった。
 どこの国でもそんな道徳は一般的ではない。 職業差別の伝統といえば、今、インドのカースト制度ぐらいないのではなかろうか。
 いくつかの訳があって推定したことであるが、羞恥心のいわくに関して、他に思い当たることがない。
 日中間 2000 年の歴史でいえば、安定的に日本は自らを地域の一国として自覚し続け、自らの至らなさを恥辱として、教えを請うばかりではなかったろうか。