沢内、北上、遠野を結ぶ線は、王域のフロンティアとして、国家の農耕儀式を営なんだ跡であった。

 安部比羅夫進軍団の仕事と考える。
 安部比羅夫は自らを越の王と称し、裏日本各地に 「こしおう」 神社を建てている。 横手にもあり、花巻にもある。 (蝦夷の王をこし王と呼ぶのは意味不明で、無理な解釈と考えられる。)
 沢内北上遠野のラインと重なる進路である。
 奥羽山脈越えの進軍路、湯田町を通る峠道しかない。
 源頼朝が秋尾花色を添える紫波の蜂神社周囲に、雲霞の如く陣を広げた時も、一派はこの道を踏み越えて集合したのであった。
 沢内の志賀来山と北上の飯豊山と遠野の六角牛山とは直線で結ばれる。
 この三地域のどこにも飯豊という地名があり、いいで、と呼ばれていた。 日本国土上他にはない地名である。
 三山もそろっておにぎりのような三角形をした山である。
   六角牛山。 もっと雄大に、緑清々しい整った姿を撮る角度があるのであるが。
    沢内の志賀来山。
  北上市飯豊地区の飯豊 (エンデ) の森。
 この線分の長さと角度をそのままに南に下らせると、有名な飯豊連峰のラインに重なることが分かる。
 
 長さは東端の飯森山からかつての信濃川河口までとする。
 他にはない地名の合致と、連峰の珍しい東西真横方向の尾根ライン。
 連峰の名も飯豊と書いて、呼び方がそろえたように 「いいで」 である。
 国土地理的国家事業であったことの証拠である。
 飯豊連峰の名付けの方が二次的であったと考えられる。
 「いいで」 とは儀式以前の北上地域の呼び方であったのである。
  各線分の西端を結ぶと奈良大和の地に至る。