湯田沢内は東北日本を二様に分ける奥羽山脈の稀なる貫道沿いにある。

 その道は秀衛古道とも呼ばれ、国を繋ぐ重要道であるばかりでなく、藤原氏の勢力の源であり、繁栄を支える金の道でもあったのである。
  左側が吉次掘りの跡。 山そのままに金が光っていたのであろう。 黄金花咲く山とはこの山のことをいうのかもしれない。 他に黄金が咲いているような山がなければ、世界中の内にも湯田沢内を選んだ理由は、この金ぴかの山との出会いにあったのかも知れない。 「これは、金を当てる縁かもしれない。」 (本内集落のまん前に金当 (かねあて) 鉱山というヤマがあった。) 山頂には砂漠地のような広がりがある。 (湯田町関係者の写真を拝借)
 前九年、後三年の清原氏と源氏将兵の往来にもこの道は使われたはずである。
 眼を射られた鎌倉権五郎が、その眼を冷やしつつ急いだ道も間違いなくこの道であった。 穴を開けた小石を奉る薬師神社の例祭は、沢内通り一番の祭りのように賑やかなものであった。 (横手市かまくら正月行事というものも、この鎌倉権五郎個人の誇り高い武勇譚に由来したものなのかもしれない。 横手市と源氏との関わりは、前九年後三年時以降に特別なものはなく、この時には鎌倉幕府は未だ存在していなかった。 薬師神社近辺に、武士の岩屋籠もり伝説があったのを思い出す。 その元は落ち武者のことでなく、深手に疲れた身を暫く休めつつ、眼を洗い清める若き武将の姿にあったのである。) 
  平和街道とも呼ばれる。 平鹿郡と和賀郡を結ぶ道という意味である。 越中畑御番所が近くにあった。 この街道の直ぐ右側に白木野集落があり、後方来た道の、仙人峠を下って最初に入る集落が本内村であった。 江戸時代半ばにも、共に街道沿いのこの二集落に、世界に向けた人材の提供が要請されたものと推理されている。 街道の右と左に分かれて、それぞれ地域の旧家があり、その屋号もその左右にちなんで、仁左衛門及び善右衛門と豪勢なものであった。 逆に海外からの混血人が湯田沢内に入ってきていて、順調に庄屋、藩士と成長した家系もあり、つぶれた家もある。 すべて藩の仕事で、入ると直ぐに、組頭となったり、一代で士分に抱えられたりしているようである。 役職、百パーセント 「給付」 の湯田沢内となることはなかったと思われる。 本内集落では、住民全員が海外遺伝子に入れ替えられそろえられていたかにも見えたそうであるが、一部回復例があったようである。 今と違って顔を見ると組織の悪戯が丸見えなことがある。
 青森から福島までの連なりにおいて、山脈懐中の町というのは、湯田沢内だけしかないのかもしれない。
 山脈の頂を割いたような所に、長々と水田地帯が北方に向かって広がっている。
  (岩手日報社 風景との語らい から)
 当然にも落人伝説が伝わっている。
 平家の落人伝説地というものは、国土測量したみたいに、各脊梁山脈の真ん中にある。 そして 「大三島」 即ち九州、四国、本州に振り当てられたように広がっている。 むやみやたらにあるものでないことは、手元にある日本史地図を見ても分かることである。
 九州は椎葉、五家荘地方。 四国は祖谷地方。 本州は白山山中と、奥羽山脈の南端が西日本と衝突して日本海糸魚川に向かう越後山脈山中、及び奥羽山脈の湯田沢内と限られていて、真実性は高い。
 本州の場合、木曾義仲の進軍コース戦場と符丁が合っている。
 ただし沢内通りの場合、平氏ではなく肥後筑紫の高橋氏である、と伝えられている。 これは、「平家物語」 中、木曾軍と戦う西国勢の大将であったと思われる、高橋氏と無関係とは思われない。 恐らく、肥後ドコサ熊本の菊池に城を任されていた高橋氏であったろうと推理することができる。
 このようなこともみんな世界史設計の背景が企んだことと考えれば、地下組織は最初から湯田沢内を、後の世の登場あるべく選び定めていた、と言うことができよう。
 黄金咲く山、仙人の窓のような珍しい地形ということがあるにしても、基本的には、未知の国への好奇心から出た方角であったろう。 しかしこの頃に眼を止められたのではなく、ひそかに国の始まりから当てられていた土地であった、という推測が成り立つのである。
  この遠野の六角牛山から北上市の飯豊森を通って、真っ直ぐに伸びた直線の端が沢内の志賀来山である。 この三山の麓には共通して飯豊という名の地域がある。
 湯田沢内地方の住民の苗字はほとんどが高橋である。 一部、400年前の落ち人、和賀氏関係者の苗字があり、江戸時代の終わり頃からは運動関係者の苗字が数多く入ってきている。
 金山はすでに伝説となっているが、古くから絶えず銅鉱山が盛んな地域であった為に、外部からの人の流入は少なくなかったと思われる。
 今銅山は全廃となり、かつての銀座のような人の賑わいは幻の如く忘れ去られようとしている。
 田もあり、温泉もあり、銅山もあった西和賀地方は、明治大正昭和の北上市商業の発展の要因でもあったのである。