上の家の農地というものは、純粋に、国民の農民努力の堆積に縁ってあるものであって、

組織から食わせられたものなどと考えるのは間違いである。 紛れもない国越え旧道沿いの修験道神社旧家であり、一千年の歴史の由来にあることは確かである。
 江戸時代中期に入った前任者はしかし、オーイお茶と言っては、茶話会に日捨て生活を送って田んぼを売るばかり、茶碗を残すだけの身上潰しに突進したものだという。 (春日八郎の茶碗酒とは、この時の状況を思い出したものなのか。) シチュエーションが悪すぎたらしい。
 紫モクレン南天せよ、という 「薩摩仕置き」 以後は、山田三角田をコツコツと開き続けて最後には一町歩の農家にまで復活していたようである。
 しかし移転後はまた七反歩、五反歩と痩せ続け、とうとう三反歩にまで減ったよ、と隣家でわらっていたらしい。 朝から晩までの節倹、悪戦苦闘の生活を眼にしてきたばかりに、何か滑稽な情けないような気がしたのであろう。
 すべて組織の計らいにある苦難生活であったと思われる。 市の展勝地の花見にも出掛けたことがなかった。 今年度も間もなく咲きにおうであろうその展勝地の桜の園も実は、後世に託せられた上の家の誠履行を望んで造られたものであるという 
 組織活動に出くわして、財産と家族を失うばかりの家とは上の家ばかりでなかったろうか。 一時も休まない節約生活が無かったらすぐにも茶碗しか残らなくなるような、被害続きの経歴の家であった。 三千万も金を失くしてやった、と湯田町子孫地下組織グループが自慢している。 病気ばかりでなく、ローンさえ暴走的に高く組まれるような世の中があった。