確かに福助は1720年頃には江戸の有名人となっていたようである。

 特に参勤交代の武将間では評判のキャラクターであったと思われる。 殿様に雇われていた時代があった。
 上の家の者を、顔はこのフクちゃんに似ていても心はまっしぐら、という南部藩の人物評価を、組織は発端からのキーワードとして採用したのである。
 福ちゃん顔がどのような経過で清酒のパック容器のように長く真っ直ぐになったか、推理するしかないが、一つのケースとしては、やはり遥々としたコンリー女史タイプの女性のお運びが介在していたものと思われる。
 いわばこれも天の配剤というものであったろうが、恐らく台湾の楼において子を宿したのであろう。 台湾窮児というテーマがあって、自覚があるかどうか、田中綾子女優と北上菅原氏の奥さんも同じ窮児上がりの女性を母親としているものと推理されるのである。 しかし、驚くことなかれ、日本のエリートの母親というものは概ねそのような女性の北上上がりの子孫である、ということを論駁して極め付けることが可能である。 日本国中のエリートというものは施設子孫であり、施設子孫の母親は概ね中国人である、という大原則が立てられるのではなかろうか。 湯田町発でも沢内村発でも北上市発でも各城主子孫発でも、皆。
 福ちゃんの場合は日本の外に出て大陸の人に出会ったということになろう。
 推定ルートであるが、ベトナムポートピープルの先蹤としてタルチェ館を脱出し台湾に辿り着いたのではなかろうか。 
 盛岡行き上陸地及び仙台行き上陸地として他にはないような石巻と久慈海岸がある。 似たような上がり方であったか。 この記憶を描いたのが石ノ森章太郎のお化け百態漫画であったか。 石巻上がりの事を石、石というので、石巻の石の森漫画館までが石のような設計図になったのではなかろうか。
 楽な運命ではなかったろうが、帰国後は各総理大臣となったり、市長となったり、皆さんなじみの西部警察陣として並んでいたりしていたのであるから、総営人数と比べたら一人二人というようなものであるが、待遇はA級なことがあったようだ。
 百姓にしては藩命にまで背いて 「兵位」 の者だな、と言われた福ちゃんの一人は、直進してかかってみろと引っ立てを一時猶予され、後に刑罰を受けたのであろう。 軒を突くように背の高いヘーシンク相手に構えた丸顔の古賀主将、といった感じではなかろうか。 
 上の家の最古の公文書記録に、倉の小豆を盗みに入った泥棒を追いかけて縄にした、というのがある。 西武私立警察の始まりであろう。 「泥棒を追いかけて、たった、たったと真っ直ぐに駆けて行く姿が目に浮かぶようだ」 とは子供心に聞かされていた内耳語であった。 1600年代の事件記録であるから、今回の地下組織活動が始まる前の事である。