遠野新勝寺が上の家の新しい菩提寺に紹介されたことについて。

 北上から遠野までは檀家の寺とするには不便なくらい遠すぎる。
 身近なお寺はいくつかあった。 本気で考えて下さった先達の真心は疑い得ない。 天皇家も後援して下さっているというではないか。 貧しい上の家の懐具合なども心配して下さったのだという。 格式の高い寺でもあった。
 その寺巡りについて、地下的にその真実を更に掘り下げてみたい。 
 そもそも、他とは比べられない程に古い由来の可能性のある旧家が、どうして今、先祖代々を破って宗旨替えを為したのであるか。
 尊敬すべき先達との出会いなど、十分な理由はあるのであるが、これはやはり地下組織三千年ほどのいわくを基とした誘導の仕事ではなかったか。 人類慈悲の最上慧と自ら誇る仏典中の法華経とクマラジーバを音読できるということは、実に有り難い果報というものであろう。  確かに、三千年の思惑が潜んでいるのかもしれない。 
 しかしまたそれとは別に、英組織の一大努力の記憶が遠野の寺に余響していたようにも思われるのである。 和尚さんは孫屋敷子孫の方であった。 また鹿児島子孫の方でもあったようだ。 またなんとなくインド的血筋に寄せられてもいたようである。 こんし三界皆是我有と誓いを立てでもしたかのように、また四国の城主様が、インド的な女性との間に私生児を持たれたその賜子を世継ぎとされていたようであった。
 世界は広く千秋楽の手仕舞い舞台に迫られつつあった。 上の家の宗旨替えにどの程度の重要性があったかは知れないが、用を為すとすれば、丁度に遠野の寺に参らせるのがいい、と地図を見て組織エージェントが計り定めたのではなかろうか。 とにかく遠野参りは、上の家の母親にとっては全く益の無い事であった。 組織の仕事に利用されたばかりで、お互い痛い目に会う手筈であった。 何も知らない信心一つの老母でしかないのであるが、奢りない身の上に辱めを受け、攻撃の的にまでなる仕儀となってしまったようである。