陪審員が描くところの西の家のイメージ − 吉田茂の顔は長谷川一夫の顔に変じていた。 

  
 西口神社社家の家筋も藤原時代を遡り、京都男山系の岩手山蒼前神社に至るという珍しい程の古格であったが、江戸時代に及んでは奉公人の役目を終えていたようである。
 組織に「落とし穴」にはめられてからの西の家のイメージ写真が左上。 地域周囲の評判も芳しくなく、一貫して藩「給仕人」とのパイプであるのみであったという。 
 「君の所に行かなくちゃ」 きっといい事だろう (あるいは作詞作曲家は下の家と給人家系とを血筋に受けていた方ではなかったか。) 右上は、にちゃにちゃしたものを口にすることができないというので、パリッとしたものを運んだことがあったという写真か。 
 嫁も給仕人の家から貰う他なく、政治家と映画俳優の顔を借りるなら、吉田茂の顔に給人家系の顔を混ぜれば鈴木総理あるいは長谷川一夫の顔が出来上がる、という遺伝子追跡が推定される。 (もしかしてこの間の昆野さんもそういう関係者の人であったか。)
 南方渡航時の話であろうか、パーティに十歳も年下のかおる君という美少年が加わっていたそうである。 歌に歌われている。 かおる君、君の好きな花を探していたんだよ、花は花は遅かった。 そして何度も上の家周囲に十歳年下の弟かおる君が登場する。 上の家の弟自体十歳年下の丸顔少年であったし、菅原氏にもその名もかおる君という十歳年下の丸々とした顔の弟がいた。 (菅原氏の歌とばかり考えていた。) 結局パカヤロウーと叫ばれる進路の分レのようなものがあったようであるが、
 この弟表現を参考に、上の家西口神社の者を高水寺組の二番手、パートⅡの格下に置く人がいるならば、それは根拠の無い思い込みである。 上下関係を語る証拠は何もない。 上の家は由来正しく神社務めを賜っているのであるから、人柄を見込まれた者であるという証拠だけは明らかである。
 組織は藤原時代の私日記の一くだり、そうへいでは行けない、をすいへいできない、などと読み間違え、想像を逞しくして子孫の運命を操ったりしているので、参考にはならない。 藤原時代の人事問題に関して、組織が独自に詳しい記憶を有しているとは思われない。 
 (給人子孫の方の顔を拝見してみれば、これは実に、かの最後の二人の一人の西園寺公望氏にそっくりである。 西園寺氏は歴史を知っている人であった。 共通項から考えれば、高橋氏の裔として二人は似ていたのではなかろうか。 和賀氏時代の一番家臣でありながら、だからこそか、他人相手になかなか威張りくさらない、のどかな鈴木氏のような人柄とよく出会ってきたものである。 小澤氏とか。 「きっと大きなチャンスが。」 最後の最後にも男のメンツが消えないである。)