西の家がこのように取り沙汰されている時に、上の家は一体何の家であり続けたのか。

 藤原時代から江戸時代までは、本当に地域の者に尊敬されていて旦那殿と呼ばれていたようである。 その後はK市の市長さんである井藤氏の先祖家系がこの間まで300年近くも相続することになる。 草むらも蛇も六部も何も関係ない。 代々の神社の勤めもなかったに違いない。 前代の記憶、文化は受け継がない主義であったようだ。 本内部落の外に分家を何軒か構えていたようである。