西神社集落には上の家と中家と新太郎家が並んでいた。

 江戸時代の記録の限りは、少なかりとも四五軒の農家軒数が認められているようである。 従って狭いようでも一心同体とは言えない各家それぞれの事情があったはずで、上の家と中の家それぞれの心と行動の違い、および相手方の行動と心の理解と認識の正誤に関しては興味深いものがある。
 謀れたか、と気づいてからの両者の心理を分析すれば、上の家の場合、そうか我に動物行為をやらせる仕掛けだったのかと先ず納得したことであろう。 すると組織の目論見を一切拒むべきか、それとも阿片を飲ませるまでして自分を裏切る組織となお付き合い続けるべきか。 もはや藩の介入までも眼の前にして女性事件の被疑者となってしまった。 この道を進むしかない。 
 少女を番所に連れて行くまでもあるまい。 四つん這い状態を公開することで阿片の効果と罪があばかれるであろう。 組織の思惑通りに自分もとうとう動物行為を働いたことにもなろう。 名案だ、名案だ。
 中の家の者が、正直に役所に訴えればいいではないか、と口を差し挟んだというのはこの時のことであろうか。 上の家の神官はこの時も後の世にも、一切藩の介入と事件の真相について打ち明けることをしなかったようである。
 従って中の家では、本当に旦那様が色道に迷い堕落して、汚れてしまっものと考えていたに違いない。
 発端においても、組織派遣の者との交際を拒み、家の前で争い打ち倒したことがあったのではないかという情報もあって、上の家の勘定書きを二人分とするような合計表現に出会うこともある。 しかし定かな事ではない。
 ある日、水辺で女性の遺体が上がっているのが発見される。 名前のない例のケースということで、役所から地域の責任者として上の家の者の出頭が求められる。 神官様はこれを無視したそうであるが、再度の要請もなく以後何の御沙汰もなし。   
 これは、事件の真実に触れないまま、中の家の者が私に西部警察・刑事二課捜索逮捕行動に真っしぐらに前進してしまった仕事の結果と考えるべきであろうか。 今日の組織による解釈もその通りのようである。
 このような行動を取るからには、組織一切を裏切り者として、単純に、戦い駆逐しようという心組みに決したということであろう。
 渡哲也の黒眼鏡とはそういうはるか昔の若気の至りを舞い姿にしたものなのである。 東京流れ者ではあまりに殺戮的な描写に過ぎているが、西神社部落での駆逐行動を解釈し表現したものと思えば理解が得られる。
 とにもかくにも、人間を愚かにしようとして、こんな山中の村道を芝居に立たせるみたいに、顔の佳い女性を連れ出して一人歩きさせていることは火を見るよりも明らかである。
 それから後の事であろうか。 名前のある姉娘の遺体が上がる。 帰らぬ人となったことを知らされても、その家では葬式を挙げようとしなかったという。 藩に対して身を控えた対応であったと思われる。 
 藩は名前を消したかったのではなかったか。 岩清水神社宮司の名前、あるいは和賀氏時代の領主重臣の名前。 「悪い夢見ていたのか(先人の名前をあまりに警戒し過ぎていた。)」 (南部氏) 神社の由来と本来のご神体、宮司の名前等を伏せて、できるだけ平俗な伝説に散らかさせようと工作を働いたことは確かと思われる。
 上の家と中の家の尋問が行われる。 姉娘の被害はどんぐりの下からではなく、家の前の堤からでも発覚したのではなかろうか。 役所は犯人を今更捜す気ではなかったのであろう、二人の証言は記されていても、遂に犯人責任を詰める様子でもないようである。 防衛か、防衛か。 中の家の者が何度か口を挟む、被害者は女性です。
 上の家神官様はわずかに、100ヵ日神社居所を離れよう、と最後に自己処罰の言葉を発したと、澤内通り取調帳に記されているという。 しかしそれでは間に合わなかったようである。
 藩の狙いは、上の家に井藤氏先祖を置くことであった。 元上の家は和賀川向こうの田畑家屋敷へと移転となる。
 1730年頃の事である。


 さてまた今日はここまでとします。