上の家と中の家は長い道連れであった。

 藤原氏に共に仕官する以前からの、千百年にも及ぶと思われる長い年月の同伴者であった。
 しかし、とうとう社勤めと本内集落から別れる時が訪れた。 この時に至っても、上の家の元神官様は藩の思惑を信奉していて、その後の事の進展を静かに待ち受けるつもりでいたのであろうか、それともさすがに、計略に遭って、上の家代々の位を外されてしまっただけかと臍を噛んでいたのであろうか。 
 しかしいずれにせよ、悪巧みのままに我を刑罰で押し切り抹消しようとはしなかった。 藩の意図する所は定かでないとしても、少なくとも澤内通りでは、頭から、何とか形式を整えて無罪放免にしようと心が決まっていたようではないか。 
 すべてちんぷんかんぷんなのが中の家の方であった。 「そして、(田畑に与って)寝食いできるのか。 開いた顎が閉まらない。」 一切があまりに屈辱である。 上の家の家屋敷と田畑は、挨拶もなしに上がって来た見ず知らずの外国人の所有となる。 
 この時には中の家の者も、こうなるまでが藩の企みであったと気が付くことはなかったか。 
 その新顔が門口に出て来て掛ける言葉が、どうもオレの事を人間と考えていないみたいだ。 四つ足のものを指差しているように指を垂らして腕を回す。 ラウンド、ラウンド。
 ヘーシンクのように背の高い男が坂の上に立って命ずるように言う。 「これからは私を旦那と呼べ」
 この胸が動悸してならない、と家内の者相手にその中の家の者が訴えていたという、1700年代のメモが残されているようである。
 とにかく大胆な冒険行の後に、中の家には一粒の米も残っていない飢餓の時代が襲い掛かって来たのであった。 倉の中の米を無くせよ、と命ずるから言われたままに米を無くしたのである。
 家族もいたであろう。 藩の仕事と思って走ったことである。 澤内の役所に頼みに行こう。 澤内にまで米を貰いに行くとはと、この乞食行の評判は散々なものであったようである。 しかし振り返って考えれば、かえって筋道の正しい、まともな勇気のある前進例であった。
 未明、隣村の鶏小屋の前に座って四時間考えて、最初の一歩を踏み出した、という報告があったが、小説的創作の描写とは異なろうか。
 近隣の家に押し入って家人の前で握り飯を食うという乱暴の噂が立つ。 
 これを聞いた上の家の元神主が中の家の者に言って聞かせる。 それでは自殺するようなものである。 我が棚者と呼ばれようと、中の家の者が東京流れ者と呼ばれようと、未だ我々は地に塗れたのではない、敗れ去ったのではない、それが証拠に、盛岡からも澤内からも、我等二人を引っ立てに来る者がいないではないか。 今までの事は何にも無いこととして我々は共にいわば無実なのである。
 これについて中の家の者の納得が行かなかった。 そんな訳にはいかない。 これは、嘘を吐いて真っ当な罪と罰を免れている事である。 
 昔通りに、田圃耕作に戻ろうではないか。 上の家元旦那様の最後の助言を中の家の者は受け入れようとしなかった。
 中の家はお裁きの公正さと藩−組織の約束とに裏切られ、長年月のパートナーである神主とは縁を切り、上の家新領主の者には見下され憤り、孤独と無念の虚無に陥ったに違いない。 
 こうして、一千年以上も遡る遥かな昔から変わることのなかった道連れ同士は、ここに至ってついに一応の決別を遂げることとなる。

 さて次回は、組織普遍のフェロウシップ課題は、春夏秋冬実践・バー位置最高位を日本の陸奥にこそ掲げ、後の世の控えとしていたことについて語るとしましょう。

By Underground