中の家は三本歯フォーク状の地下壕の上に乗せられていた。

 上の家に新しい「旦那様」が訪れてから明治維新までおよそ140年。 この140年間の起き伏しと忍者活動の紆余曲折を、大よそにもまとめ上げられるような見晴らしが今ここにあるわけではない。 140年と一口に言えば短いようであるが、一世代30年として計算すれば、5世代にも亘る。
 しかし幕末期においても西の家の私警察は逞しい実力を誇って、上の家の主を路上で咆哮させたことがあったことは確かなようである。 江守徹に似ていると言われている上の家主の咆哮とは、「もういいじゃないか」 「本内部落のこの上の家こそ永遠の我が故郷である。」
 渡海の者を上の家の後継者に据え替えるということは、すべて南部藩と世界組織との契約が為したことであった。
 同期生には澤内村に二軒、他の地域にも同様の領民雇い入れの例があったようであるが、詳しい情報に与かったことはない。 伊達藩の場合武士雇いの例があるようであるが、南部藩では皆村役からのスタートである。 庄屋から刀差しにまで上った加東氏の例がある。
 上の家の場合は上述の事情であまりにも条件が悪すぎた。 他地域の書面にも名を記す活躍をしていたようであるが、一代きりであった。 村役どころか命を繋ぐにさえやっとの生活が続く。 いま思えば水田開拓の努力においてやや欠ける所があったようである。 栗、花梨、リンゴ、茱萸、ユリ、柿その他と、芋などの畑作物の余裕があり、食料の不足による災厄というものではなかった。 苦難続きの上の家に対する組織のバックアップが想像される。
 組織は世界史計画の展望があってこそ、詐欺的に上の家から代々の者を外し、わざわざ上陸者を相続させたのである。
 裁きの不公正と藩の欺瞞に憤りを覚えている西の家の者が、英語を使うような背高の者に、高飛車に「我を旦那様と呼べ」と言われて承服できるわけがない。 「この胸がどうきしてならない。」
 しかも頭から原住民を生き物扱いしているようである。 「仕方がねべや生き物だもの」という言葉がいまも西の家分家の新家の方角から聞かされることがある。 西の家も新家も一心同体であったに違いない。
 生き物即ち獣であろうか、鼠か爬虫類であろうか。 上の家発展の夢と努力の跡を思い出して設計したのが、花泉の館ファームアレンジメントではなかったろうか。 国道でも枝道であり、屋敷と言っても国民宿舎のようなシャトー建築物ではなく、丘の上に立つ農家に過ぎない。 おまけに百獣の王の日々の記憶に、動物園まで設けられている。 百獣の王という言葉はしかし、加東氏の口から聞かされる言葉であるから、もしかしたら上の家自体が自らを驕り使用した言葉ではないのかもしれない。
 ある時極めて捗りのよい事があって、「日計している、これで50日分だ」 と他人に活動の成果を示したことがあったようだ。 「50日間の仕事の記録だ」 ― これ以外の解釈はあるまい しかし厳しい、容赦のない対敵行動であった。 自ら仏も情けもない荒法師になってしまうだろう。
 誰も、今、自分で見てきた事を話しているのではない、みんな同じように誰かから聞いた話を伝えているのである。 途中で誰かの解釈をまじえて。 子孫自らがそのような話を聞かされて、本来私の警察行為であることの誇りを失い、無謀な前進行動に身を預けたことがあったかもしれない。 
 生活条件としては140年の間にいくつかの変転があったようである。 重大転機として、地下世界組織との直接の出会いがあったであろう。 
 いつの頃からであろうか、澤内村の組織関係者からはるばると塩魚ホッケの差し入れのサービスを受けていた事があったらしい。 単純に地域のボランティアであったと考えるべきであろうか。 
 一切は、地下道を巡らせてからの仕事であったに違いない。 地下道と地下組織の絶えざる存在の村人それぞれの認知はその後の事である。
 中の家住居を挟むように、三本歯のフォークの形に似せて地下壕が巡らされていたという。 (フォーク、ホッケ、フォークボール、二本指殺法、・・・
 八時半の男、大魔神、・・・プロ野球の演出は西の家助っ人時代を取材したものであった。)
 フォーク給食というものはわざとらしくも窮屈なものであった。 金をばらまくみたいに多人数を動員する組織であったろうが。 
 結論として三本間の挟殺というものは、路上薮中の仕事であって、すべて「フォー!」マント魔神なるものの仕事ではなかったかと推理する。 筆記者も薄くない関係者である為、疑惑を簡単に他所に寄せることには気が引けることである。 しかし、大胆な旅人導き事件というものは、これまでの潜伏警察活動とは大きな隔たりがあって、決まった場所決まった遣り口を確立して大きく踏み出した、人の評判を恐れぬものである。 (私は仏じゃありません、というお決まりのセリフまで用意してお客様を接待していたのだという。)
 実態はどの程度のものであったかは別として、この第三者の存在を元上の家の人達は気付いていたであろうか。 失踪事件を短絡的に中の家の者の手口と決めつけてはいなかったか。
 中の家の家族達はこの頃であろうか、四歩の者という渾名をいただいていたという。
 西村晃のような顔の男が足の裏を見せて寝転がっていたという、独り暮らしの時代があったようだという情報を受けることもあった。

  ここら辺で今日は終わりにして、続きはまた明日とすることにしましょう。

 By the underground