最後に、西神社集落について箇条書きにより

振り返り、整理してみたい。

 ― 最初にこの行を借りて、海内海外を問わず、犠牲となって闇中に紛れ入ったままの多くの亡き魂に対し、哀悼の意を表させていただきたい。

1. 上の家は、藤原氏に仕官して以来今日まで、強盗の類を働いたことはない。 
 家屋敷を地下組織のお蔭で増やしたこともない。 本来の領地はある程度広大であった。
2. 中の家の世界組織との直接遭遇は早期のものであったと想像される。
 深い覚悟の進路の選択であったと推理する。 (田に入ると、「アガー」という、いわばフェローシップ執着音とでも言うべき警めの声が地面から聞こえたものだという。)
3. もはや相手とする世界は広く、三千世界のカラスを落として青空に光る白い雲に心ひかれるばかりの境地ではなかったろうか。
 (この流儀を見倣ったものであろうか、「あの白い雲を仰いでOKと言えるか」「OK」というOK牧場契約というものも多くの社員を集めたものだという。 ウンちゃんナンちゃんウカさんこそエリート戦線の公分母であるという社会観察を聞かされることがあった。)  
 西神社祭り上げ事件を余所にして、右衛門家子孫の世界進出計画が唸りを上げるようにして運転をスタートしていたに違いない。 魂は白木郷右衛門計画の「未知」未来にある、と打ち明ける時があったという。
4. 銭形平次の玉投げといえども、組織背景のアイデアであったに違いない。 簡単な事ではなかった。 
 「コロ」呼ばわりされて、心がどうきして止まない、と言った時すでに地下のさわりを指差していたのかもしれない。
5. ベトナム行は牛の博物館グループと一緒ではなかったと推定する。 
 脱走したり、勉強に熱心でなかったりと、中グループは常に組織と間合いを測っていて、素直に服することがなかったという。 理科室の条件に合わせることができなかったのだという。 勉強をしないなら形をやるということで、悲願の通りに背が高くなり、空手道クラブで空手道二段の黒帯を締める、という別コース約束で教室に収容される。 
 なんでもはいはいというのでない、ある種の気概というものの証明になるのかもしれない。
6. 牛グループと中グループは区分け単純で、すっかり別交渉であったかどうかは確かでない。 
 十歳年下のかおる君が所々に現れて、神に連れ去られたようにいなくなる事件が所々に発生している。 
 かおる君は可愛がられたのであるが、何故か馬鹿野郎と思い切りよく叫ばれてしまう。 
 残念な仲間がいたという身内勝手な歌に過ぎないのかもしれない。
7. 西神社集落の環境とは異なり、今や何代にも及ぶ上の家を真っ当に受け容れようではないかという地域民の計画が着々と進められていたようである。
 相続人は先住者の跡を一切払うことによって、上の家に戻れる、と言って頑固であったという。 古文書、祭具等すっかり焼却処分したであろう他に、先人の墓石を水底に投棄消却せずんば叶わずという程に潔癖であった。 
 しかし、もはや変わりようもない我らが村人ではないか、元上の家の子孫を近くに置いて嫁を取らせる仕事をしてみよう。 そして今度こそは上の家代々の神社の祭主となってもらおうではないか。 確かに嫁は二度も入ったそうであるが、どうしても神主の職位に就くことを肯んじない。
8. 難解な中の家に対して、元上の家が下した見透しのいい落ち着いた評価がある。
 彼らは冒険家だった。
9. 南部藩の評価もある。
 彼らは「兵位のものだ。」 (決して屁と混同しないよう。)
 先祖代々警戒追及してきた紀氏の者達ではないから、気安い付き合いにもなろう。 
 田村麻呂軍下の者として「受冠」御馬の霊を祀ることもあろうか。
10. 最後に顔探偵。
 個人的経験から言うことであるが、長島紀一先生の顔はみちのく紀氏の顔の有力証拠であろう。 和歌山県民の顔は紀州みかんそのもののように平たく丸い特徴を有することがある、その一端であろう。 由紀夫というと皆紀州の産であることを打ち明けているのである。
 推理に過ぎないのであるが、みちのく紀氏の顔の原型はやや小顔であったと言えようか。 
 もしかしたら、このような形で出ていますのダウンタウンが、組織の推定設計する上の家中の家の顔の輪郭図なのではなかろうか。 中の家の顔は金社700年の間にもかなり高橋顔に変じて来ていたのではなかろうか。 頭部おわん型の共通性が見受けられる。 やせ細ると王選手がヘルメットを被ったような顔のラインに見えたというのであるが、いつの頃のスケッチか定かではない。
 しかしとにかく900年の建社とすれば藤原仕官ははるか後の1050年以降。 200年もの孤立無援的生活環境の時代があったものと推定される。 7世代も8世代も代を重ねる長い年月である。 自然にも血脈の交流が起きたであろう。 吉田、大平、鈴木の大顔といえども紀州人蜜柑顔の発展形といえるであろう。