西神社周辺のその後

 結局は、江戸時代中には逮捕者の一人も出ることのなかった、西神社集落不明家の最長不倒距離ゴシップと 「置いてけぼり」 前進であった。 地域の公文書犯罪編に記されてあるものは、西神社提灯祭りの果ての高峰美恵子遺体遺棄事件一件に関する、神主と中の家の者双方からの聴取記録ばかりであったようである。
 忍耐と制止があった。
 その貢献を買ったのではなかろうか、藩は、関係地域の農家一列に苗字帯刀の特別なる恩恵を賜る。 もしかしたら、世界組織からの支援と依頼があっての措置だったのかもしれない。
 天保年間に列候会議というものが京都の二条城で開かれる。 床几に座ったままの談義であったという。 題名は、世界史組織活動の始末。 この重大スケジュールを、日本のトップ指導者たちと語らい約束することによってこそ遂行したい、という組織の一大方針に基づくものであった。 誠なる履行とか、紳士契約とかの言葉が振り出される。 (新選組は、ある意味でこの二条城会議上の約束言葉を羽織らされていたのである。 誠一字の胸印。 勤王派掃除という京都始末。)
 その時に、最終ランナーに予定されている上の家の者について幾許かの言葉が交わされる。 彼は何者であるか。 結局南部藩だけが真実を知っていた。 彼は「北海道人」である。 
 最終ランナーには薩摩人を頼むこととしよう。 国土の保守本流である。
 前田、山元、山田の名前が確認される。 山元の嫁として城下士流れの里見京子が紹介される。 「若い二人だよ、枝も伸びれば葉も茂る」 と私まるで歌麿の覚悟で身を乗り出した京子さんであった。 「走れ走れコウタロー」 とは若き山元をからかった京子さんの言葉なのかもしれない。 先ず、「里見浩太郎」 が上の家に座る予定であったと思われる。 (「浩太郎」 氏は京子さんの甥にでも当たる人であったようだ。) しかし山元は、ハイカラ女性とは一緒に生きていけないな、と固辞したという。 顔がノトだよと要らぬことまで言ったのかもしれない。 (山元の父親はカメラマン志望であったという情報が入る。 それでグライダー写真家がテレビに登場しているのかもしれない。)  
 会議によって鹿児島長子の家となったのであるが、前任者家族が一人もいなくなったのではない。 近隣のK町とその他の三ヶ所に連れ出された兄と三姉妹の他にもうひとり弟、上の家の同居人として残されていたのである。 何にも言わずに働くばかりの老人であったという、直接の人物証言を聞かされている。 家を建てる時は木一本欲しいと言った、それしか注文はない。 ― その弟の末子に当たる人とは身近に接してきたのであるが、やはり素朴で落ち着いた、心のさっぱりとした人であった。 共に咲く喜びを主義としていたものと推理される。 労働したのは父親の方である、と一言口にするだけであった。
 山元の長男として清身が生まれ、清身は上記末子の姉と強制的に夫婦にされ、精一が生まれる。 不倫や置き子の疑惑が掛かることもあるが、省略したい。 (清身は地域名誉の役人勤めの位置から、迎えるべき嫁について高めの理想像を抱いていたようである。 共に咲く喜びの考えからであろう、思い切って近付いてきた弟系列の妹娘を振ってしまう。 妹娘は色白で背の高い、女王陛下タイプの人であった。 この破談はあるべからざる残念な事であったと思われる。) (清身の現在と未来を体現したものとして、森茂久弥の役回りがあったのかもしれない。 ヒント、駅前旅館と日本の重役。) 
 精一は19歳で特攻隊召集を受け帰らぬ人となったという。 年代的に相応するから嘘でもないのかもしれない。 跡を継ぐべくはやはり、九州鹿児島から遠路はるばる上がって来た二代目精一であった。
 
 次回は、精一とその嫁山田直子両人の身上鑑別結果と、なぜ上の家の家族達が長々と不調であったかについて触れることとします。