山田直子の先祖は島津氏領国の妙好人であった。

 上の家の嫁、高橋直子の一ルーツは鹿児島にあり、故地での苗字は山田であったと想像される。 禁教真宗の活動家であったことは確認されるとしても、その身分は推定によって妙好人というものではなかったかという説が届けられているだけである。 結局身分については未確認人いうことであろうか。 江戸時代初期にまで遡る事実である。
 刑罰の記録が残されていて、証拠隠滅の如く塗り消されているという。 判別できる文字は、城下(構へ) 及び市中(立ち入るべからず)。 一等緩い裁きとなっているようである。
 後からの推理証言かどうか、仏画を表具なしに市中に散らかした罪という名目であったという。 訳あって手加減するような環境が藩内に存在していたのかもしれない。
 泥団子作戦という緑化運動があるが、一つでも根付けばいいという熱意ある布教活動であったに違いない。
 江戸時代における刑罰人即ち非人たるものの生活は、偏見の害も重なって相当厳しいものがあったはずである。
 途中で世界史組織に掴まった例ではなかったかと想像する。 この地方の畑全部非人の畑だ、という鹿児島の風景も珍しくないという。
 世界組織の企みで、金を払ってまで特定的に付き纏わせる、食い詰め作戦というものがあった。 この時からのスタートであったのかもしれない。
 最初から母親となる計画であったようである。
 ここにドイツのエーデルワイス計画が介入する。 北上川ライン川に見立てて古くからドイツ人活動家が岩手に駐在していたようである。 象印計画には本当にノイシュバンシュタイン城が関与していたというのである。 野豚ではだめ、藩主貴族の血を混入せよ。 
 この計画に基づき山田少女は盛岡に運ばれ、殿様との内式婚姻の日々を送らされることになる。 この時には山田少女は自決していたようである。 「私の気持ちは絶対に分からないんだ」 と鹿児島弁で口走っても南部弁の殿様には通じない。 「もう遊びだ」
 すぐに邸に上がって金襴緞子をすればよかったのであるが、どういう訳か参道脇のような所に座らされる猶予期間があったらしく、その時に郷里の英雄黒田元総理と思われる紳士が近寄って、一枚の紙を渡したという。 自分は行くなかれ。 表具して行くのだ。 直子をやれ。 と書かれていたという。 自分が行くんじゃないよ、という念入りのお節介であったと思われる。 字が読めるわけではないから、身近の人に読んでもらったのであろう、漢字の読み方で、すぐ子をやれ、と教わる。 英雄の命令である、身を捨てる覚悟でも実行に及んだのであろう。 橋の上から子供を突き落としてしまったというのである。
 供述と共に警察の捜査記録が残っているという。 後で自分の過ちを知った山田少女の悔やみ方は、人並みならぬものがあったと報告されている。 もう立ち上がれぬ重病人のように、長く土床に伏したままであったという。 近付くと激しい歯ぎしりを繰り返す音がして、何時絶えるともない。 無念で無念でならなかったのである。
 「私の気持ちは絶対に分からないんだ」
 しかし真正直に殿様は約束を果たし終える。
 「くもりガラスを手で拭いてあなた明日が見えますか」 「あのボケまた繰り返すのか。 もうお払い箱。」 
 そのボケが澤内谷間に現れた所を野ブタプロデュースして、必ずやその脚を止めよ、というシュタイン城系統の命令が差し挟まれる。 無駄になるじゃないか。 縛せよ。 ブタのように縄を付けて思いっ切り辱めを働いたという。 踏んでも踏んでも潰れないアフリカ象の筆入れに譬えられる。 筆入れでも持っていたのであろう。 ヘミングウェーのキリマンジャロの雪とはこの奇聞をモチーフとした題名ではなかろうか。 エーデルワイスと土塗れのアフリカ象キリマンジャロの風景とする。
 思えば、少女を縛して動物みたいに這わせてみせる、というのは江戸時代の上の家の為した業でもあった。 この場合少女は這わせられたのではなく、阿片毒にやられて自ずから二本脚で立てない状態となっていたのである。
 結局上の家の嫁となったのは野ブタの直子であったのか、それともエーデルプラン通りに多くの盛岡発子孫の内の一人となっていたのか。 右衛門近隣の出身家の家族にその面立ちを感じ取ることがあった。
 山田直子はしかし、実は右衛門家の最後の右衛門の実子でもあったのである。 世界中の右衛門家の子孫達は、現地の右衛門の遺伝子を確認したければ上の家の直子の顔を見るがいいのである。 宍戸錠さんによく似ている。 クリントイーストウッドでなく、その相手役である。 
 生まれた赤ん坊は長女であった。 ― ケイガイスター。 シーイズカレ。 ひょっとしたら証人復興相、中学時代の発言ではなかったか。 「彼は彼女であった。」 即ち右衛門の家の血統は途切れてしまったと訴えていたのである。
 右衛門子孫の一人が中国から帰ってきて、シベリア抑留帰還兵の弟として右衛門の家に入る。 いわゆる 19 歳入所者として華原氏を後に名乗る人であったから、言葉の訓練も急ぎのもので、最初の挨拶には全く自信がない。 何を言ったら弟息子として入れてもらえるだろう、と相談する。 親の目に会えないで残念な事を口にすればいい、という助言であったようだ。 確かに眼に明らかな証拠がある。 直子とこの次男の二人がいることをニワトリあるいはニトリと表現していたようである。 右衛門家の顔の特徴がよく現れている例である。 次男には幸子という娘さんがいて、やはり右衛門家の顔の輪郭を止めておられた。
 付け加えれば、帰還兵次男の父親というのは、日本の詩文学近代史に名を残す軍人詩人であった。 中国に帰り共産党幹部として長く国に勤め続けて、何年か前に亡くなられたというニュースを目にしたことがある。 花巻の詩人を見舞いに花巻にも立ち寄っていた。 その父親のいわれで次男は書く人と呼ばれる。 警察官の後司法書士となって家の農業を継ぐ。 「チョイチョイと書けば幾許かの小遣いになる」と語っていたという。 同名の人が澤内通りの伝説を一手に引き受けて本に書き記しているが、この由縁名を代役実行したことのようにも考えられる。 
 直子は、ご飯焚きも漬物作りも教わらず、ただ炭焼き屋の炭担ぎと田打ちの外仕事ばかりを子供の頃からの担当として、育てられてきたことを何の不平でも泣き言でもなく打ち明けるのであった。
 上の家の嫁となった時には、人と並ぶような文化的躾けもなく炊事仕事も一切知らずに、父親もさすがに不安に思い、人に聞くようにこれでいいのかと呟いていたという情報がある。
 66歳頃には完全な痴呆人間と化してしまって、仏様を拝みに来る家族の一人もいない親族の一人もいない、荒寥世間を知ることだけは免れている。
 なお、高橋直子の顔は右衛門顔の特徴が強いが、一般に山田直子関係者の顔は鳥顔である。 全員鹿児島ルーツの人達かどうかは知れないが、似たような鳥の顔形、鳥因縁のスター達に出会わせられているような気がすることがある。 たとえば、加藤登紀子さんも近い人ではなかったか。 歌に「人は昔鳥だったのかもしれないね」と空を憧れ見る人間の本能のような姿を表現する言葉がある。 
 またイタリア文学者の須賀敦子さん。 小鳥の囀りのような少女の声をナレーションとするビデオがある。 野の道にいて鳥と語る人といったら、アッシジのフランチェスコである。 ビデオの眼はフランチェスコの跡を親密に辿りたゆたう。 
 右衛門の屋敷前で歩いてきた山田少女は、道端に座り、火に鍋を掛けて何かシチューを作っていたという。 原点の刑罰文にある「市中 (立ち入るべからず)」をもじったものに違いない。 野暮らし自体がある種の演出であった。 常に組織の背景があって、背後の農家に寝泊まりしていたらしく思われる。 
 たまに空を見上げ鳥と語らっているようである。 独り寂しく、はるか遠くの母親の事でも思い出しているのかな、と地下から様子を眺めていた組織活動員の言葉がメモされているようである。
 明日のパンの為に思いわずらうな、神は野に明日の糧を心配りして下さっているのだから。 聖書の言葉とフランチェスコの生活を描いてみようというアイデアであったと思われる。 すべて、彼女がフランチェスコの親戚だというからに思い付いた事であったろう。 推定であるが、フランチェスコ旅人は日本を訪れたのではなく、どこか中国の一都市に滞在していたのであろう。
 日本のスターに他には、石川小百合さん、田中角栄元総理、・・・その他大物大勢。