紀氏伝解釈続き

神話に拠れば、国家初期最高家系としての臣連中、原点からの道連れとして定かであるのは中臣氏である。
大伴氏物部氏共に徒次における心服者のようにも読み取れる。
中臣氏は神別氏族として天皇家系に親しい縁が考えられる。 眉毛の長い藤原氏のプロフィール印象は当たっているのかもしれない。 とにかく切っても切れない王の友、万古不易唯一の伝統保持者として並ぶ者のない最年長者である。 (藤原不比等すでに天皇庶子である、という伝えもある。 有名子孫氏族を挙げれば、工藤氏伊東氏日野氏菊池氏井伊氏上杉氏伊達氏大友氏立花氏西園寺氏近衛氏)
推理ではあるが、金属木工具匠としてのルーツを有していて、その誇りを屋根に掲げ名前に記念しておられたのかもしれない。 金属があるかどうかの文化の輝きの差は決定的である。 特に建物。 丸太を加工した板と柱の組み合わせによって、設計施工され眼の前に立ち上がっている家屋宮殿は、まさに魔術の如き出現であったに違いない。 板がなければ板敷の間もなかった。 土間生活と比べたら、金属の始まりの時代と今日とは大差がない。 輝かしい事であった。

以下国家起源推定メモ
起元250年頃天が原から下る。
崇神天皇を初代とする。
古墳文化を伴う。
魏志倭人伝は大和を記録していない。
方角はニュージーランドでなければ海南島を目差している。 これは誤植でもなく、測量の過ちでもない。 周辺、領域、これが日中間の永遠の祈願である。 統一国家ベトナム、ネパールブータン丹下左膳、雪白チベット西蔵、秘境石仏文化、ご免蒙りたい、新羅シロの国、百済ない国、ないない尽くし、ないじゃなしの果てに、タミール万葉集セイロン置き文まで仕掛ける。 こんな山奥に雲南省に大和の国があった。 ―大和克子さんもしかしして。
漢が滅びると、中原は領域民族の偽名国家状態となり、稀なる散国状態を呈する。
(岩手県雲南地名があった。 遠野の飯豊六甲子山から澤内の飯豊志賀来山まで直線を引く。 その線上に北上市飯豊エンデ山が現れる。 またその線分の真ん中にその雲南の農村があり、雲南神社が奉られていた。 このような地名連関は他の土地には見当たらない事である。 飯豊連峰の頂上にはコメが撒き敷かれてその参道は夏なのに雪が降ったようであったという。 何と連峰が描く線分そのままを岩手県の遠野澤内線分に移動させることができるのである。 雲南移動の日中間懸案が混入した米儀式の跡なのかもしれない。)
(庭伝いの道形だじゃ、袖だべや、側道だよ、し垂り尾だ、便りだ、色紙だ、浮木だ、浮草だ、八つ橋だ、石庭だ、注連縄だ、エビで鯛釣るの。 ヒルだや、国縁起にヒル一筆忘れねでね。 三島とも呼んでいるが、アキツ島とも呼んでいる。 苧だとも言ったのじゃないか。 アサ呼ばわりしでがってらな。 短歌淡歌とも言ってるな。 和歌か短歌かと呼び名問題に触れずに時を経ている。 どっちかにしてもいいとも悪いともない。 ・・・)