紀氏伝解釈続き

前回はつい、調和も言葉の整理もなく、日中間の懸案について思いつくままの証拠陳述に走ってしまい、お見苦しい限りでした。 いくらか訂正してそのままにしておきます。 主宰者世界史の探偵という仕事は他に誰一人為すことのない突拍子もない請負事務であって、一つ一つが初耳の、受け入れがたい無根拠無学、軽佻浮薄の言い立てでしかありません。 小ブックにして系列的総体的に並べればもっと説得力が増すでしょう。 主宰者犯人と活動員の記憶だけが根拠であれば、証明と言っても、この説得力の他に持ち出される証言はありません。 しかし、今や、歴史の主宰者の存在を疑う人はかえって少ないのではないかと考えます。 それがいつの頃からか、という問題があるだけなのです。

さて国史に記されている最初の最高氏族の内、臣に並べられているのは、武内宿祢の五兄弟で、有名なのは蘇我氏と紀氏。
蘇我氏が朝鮮系、すなわち母親が韓の人であろうことは、いくつかの証拠から明白である。
手元にある吉川弘文館の日本史年表において、王の名以外に最初に記されている日本人の名が紀生磐である。 大磐とも記す。 487年。 紀生磐、百済に反乱、と書いてあるが、百済地において日本に向かい反乱を起こしたと読むのでは誤りである。 この時なぜ生磐が百済にいたか、聖徳太子登場百年前の事情について、安易ながらウィキペディアを参考にさせていただくこととする。