紀氏は大将から始まっていた。

紀生磐は、465年雄略の命の下、大将として新羅征伐に向かった小弓の子である。 小弓は蘇我韓子大伴談ら従えていた。 大伴談は戦死し、小弓は病死する。 子の生磐は父後継の大将小鹿火を怒らせ、小鹿火は韓子を唆し生磐を暗殺しようとするが、韓子は返り討ちに遭う。 小鹿火も朝鮮を離れる。 生磐韓子は共に日本歴史に名高い一族の先祖となる。
487年、生磐は再び朝鮮に渡り、自らを王とする領土を得ようとする。
587年に物部氏を滅ぼしてから645年の大化の改新までは蘇我氏勢力であったが、奈良時代は紀氏が最も活躍する時代であった。 その後は藤原氏武家時代の始まりまで権力を独占する。
866年の応天門の変によって、名家紀氏の政界における没落が決定的なものとなる、と歴史書が記すところである。