岩手山麓に赴任した神官グループのそれぞれ

 世界史共通のオンリーワン・ファミリー時代の運命として、名家は勝者でなければ必ずや敗者であり、身を伏せて生きて行かなければならない矛盾律に与かる。
 本人が大伴氏や物部氏蘇我氏や紀氏を名乗ることはなかった。
 紀氏が、田村麻呂愛馬(天皇賜与の名馬であったらしい)を岩手山に祀り、その御魂鎮めを勤める神官として、はるばる京の都から派遣されたのは、推定であるが900年頃のことと考える。 
 864年富士山噴火、869年陸奥地震津波、871年鳥海山噴火、878年関東地方大地震、887年機内大地震と連続して東北方面の山霊が鎮まりを失っている。 
 陸奥奥地への大役であった。
 900年代には、紀貫之和文学の先蹤開拓者として大活躍している。 この貫之の土佐日記と相応ずるが如く、陸奥北方の住民状況を記した紀氏神官の日記巻物が存在しているという。 奥州藤原氏を遡ること二百年もの前の、日本全文字資料史においても極めて稀なる古文書と言えないであろうか。
 安倍氏以後、社グループは道筋を分ける。 多くは平泉に走り寄り仕官を遂げたものと観測される。
 それまでには、彼等は数を増していたようである。 田村軍残兵も抱えて血の交流を深めていたものと思われる。 社勤めには神主、禰宜、祝の三種がある。 紀氏神官の遺伝子は意図的にも純粋保存されていたものと推理される。 和歌山人特徴の豊頬タイプではあるが、丸顔小顔というのとは異なっていたものと想定され得る。 他のもう一人の神職もやはり和歌山県人であったと思われる。 眉間の離れた特徴的な牛顔の役人がいたに違いない。
 地域にそれぞれの個性的な顔形の子孫がいて、推理探偵の材に不足ない。
 平泉白鳥館近辺に構えていた一族があったらしく、その跡に牛の博物館が建てられている。 和賀郡本内村西の家からの由来ではなかった。
 田村軍残兵も顔の大きい浅黒肌の男であったようだ。 田村兵というと、兵はもはや郡司有位者の子弟に限られる、という時代に入っていて、彼らは武士のはしりであった。
 雫石社地に留まっていた者もあった。 後に雫石を離れ、名家斯波氏の重臣となり活躍している一族もいる。 更に南部氏に仕え、大活躍の後に追われるという悲運の武将もいた。
 それでは、本内西神社の紀氏ペアとは如何なるみちのく道筋の二人連れであったか。
 以降は次回の記述と致したい。