湯田村本内に神官として紀氏二人連れは赴任する。

 江戸時代まで代々侍勤めをしてきた平泉多勢と、本内二人連れとはどこで道を違えたのであろうか。
 二人は岩手山麓の岡を下って、「商家」をして暮らしていたのだという。 平泉までの二人行は楽なものではなかったと思われる。 「今はこういう形で出ております」という言葉が伝えられているようである。
 館から、二人を側に置きたい、舎人役人として採用したい、というような御意が伝えられる。 段々に慣れてくるであろう。
 先輩担当者はこの採用通知に「思案」したという、メモ内容が送られている。 (筆者私事であるが、中学時代いきなり級長に選ばれたことがあった。 担当の教師が教壇の上に置いた名簿が眼に入る。 自分の名前の上に黒々とバッテン印が付いている。 恥ずかしい事であった。 −この頃私は一段と肝の小さな人間として発展中であった。 球技失格人間であることが胸に刺さっていた。 バスケット、バレーボール、卓球、この手首には出る幕がないのである。 −教師の名前は長嶋紀一。 平泉一派の一人である。 オレは平の藩士だ、と語っておられたそうであるが、親が付けた名前は紀氏一番というあからさまな長兄表明であったと思われる。 上の家の者再び先行者に級長不合格を告げられる、というパロディーであったか。 しかし長嶋先生貧乏人生徒に同情して、陸上県大会への参加など活躍を望んでおられた、と後から聞かされる。 顔は三谷幸喜氏そっくり。)
 藤原氏繁栄の基である産金の運搬道に安全祈願の社を築き、そこの神官として二人を赴任させる、ということで就職問題は落着する。 平安京都役人の本来の姿にも近い。
 本内紀氏の顔は、江戸時代大名間で有名であった福助に似ていたらしい。 フー、というのはここから由来する。 フクちゃんという四角顔キャラクターの漫画もあった。 紀氏純粋培養の一人であったことは疑いない。
 もう一人の連れは、やはり和歌山県人に見かけることのある眉の離れた特徴的な顔形。 裏表のない極めて素朴な人柄。 狡い方じゃない、性乱暴な方じゃない。 芦屋雁の介と芦屋小雁では紀氏の方が二番手のようである。 鳩山兄弟、と言えばピッタリしようか。
 西の家の人と言えば懐かしく思い出す人が多いであろう。
 次回は、上の家の歴史にとって極めて重大な、1730年代の近藤武者介入事件について触れてみたい。 澤内に尋問調書が残されているので、照合すると説得力十分な再生記述が可能である。