西郷隆盛と征韓論


実際の西郷隆盛の容貌がどういうものであったか、隆盛の子孫の方が、上野の像を見て、似ていない、と言われたというのだから、その像とそっくりではないことは分かる。
薩摩人特有の、眼のすぐ下の頬骨から満々と盛り上がった魁偉な顔付きであったことは確かである。
邪推にも近いことであるが、このアンド運動と呼ばれる古い地下活動の呼び名の由来である、アン女王の、特徴ある容貌の肖像画があって、西郷隆盛と似ているのである。
奇兵隊の長州の志士達と並んで、比類ない個性的な英雄として現れ出たのが西郷隆盛であった。


西郷隆盛を研究しておられる先生のインターネットの記事に拠ると、征韓論は志士上がりの明治政府の重臣達の多くがいろいろな理由で主張しその記録が残っているそうだが、かえって征韓論の代表者みたいに歴史に残されている西郷隆盛には、独自に訴える征韓論なるものはなかったというのである。
とにかく征韓論が議題になり、窮余の収拾の策として、遣韓論、即ち自分が遣韓大使となって、何とか、邪宗門に心を売ったと言って差別している隣国の扉を開きたい、と例によって身を挺した提案をしたという。
さすがに、他の重臣達の征韓論に反対側の大久保利通も、その断案を通すことを認め、岩倉具視が陛下に奏上することに。
百科事典にも載っていることだが、この時岩倉具視は自分の独断で征韓論取りやめの決議を奏上したという。
板垣退助大隈重信と違って、この時から西郷隆盛明治新政府への信頼を取り戻すことができないほどに失くして、永久に訣別する。
以後の新政府の隣国への対応は、かえって、遣韓論的でなく、策略的である。