母の思い出の庭

66歳で亡くなった父が、これぐらいに育った紫もくれんの木はないものだ、と珍しい木の知識を口にした事があった。
岳村の村上の家の屋敷から持ってきた木は、南天とこの紫もくれんだけである。
庭造りもない忙しいだけの農家の畑地だけの屋敷周りに、その二株が玄関の左右に位置するところに植えられていたのに今頃気づいている。
南天は元気がないが、もくれんは生命力盛大で、一夏だけで庭を覆い屋根を凌いでしまうほどの枝と葉群を毎年伸ばし膨らます。
鳥箱があったので、その枝群の中に挟むように置いていたら、すずめが巣を作るようになった。
抱卵中に強風で屋根が飛んだことがあったらしい。
強く枝を剪定して、箱も下ろそうとして箱の中を見ると、巣箱からあふれるほどにぼろきれが詰め込まれている。
不思議な鳥の行動である。
取り除いてみると、底の方に卵が入っていた。
一所懸命な、頭を使った母鳥の対応と思った。

鳥箱はすぐ側の御用の松の木に移されている。
庭造りの意識がなかったので、隣地との境界近くに植えられている。
真っ直ぐに太く育っているが、境界に近いので芯止めの剪定をしている。
5分の1ぐらいの高さに抑えられているのではないか。
ある年特に強く枝払いをしたことがあった。
その翌年に初めて花を咲かせその木独特の実を見せてくれた。
30年近い年月の後であった。
この木は、父が脳卒中で倒れ、あまりに生活が苦しく、どうしようもなくなって、思い切ってどこかに頼んだのであろう、学校の先生家庭に家の半分以上を借りてもらうことになったことに因り、玄関先に立っているものである。
御用の松、たぶん弟が偉くなるのを期待しているという挨拶なのだと思う。
先生は荒木田という苗字の方で、この家の部屋を借りていた長い年月の間に夫婦共に教頭試験に受かり、県内の学校の校長先生を勤めておられる。
荒木田氏はたぶん有名な荒木田守武の流れを引いている一族なのかもしれない。
秋田の人だと、主人を亡くしたばかりの奥さんから聞いたような記憶がある。
福島藩の古文書にもよく登場する苗字である。
国文学専攻だったようで、和歌の短冊などを自宅の床の間に飾っていた。
この家を借りている間は、私達はかえって狭く小さくなって暮らしていて、二人のご姉妹には二回の床の間を使ってもらっていた。
母の兄が伊勢参りの土産に持ってきてくれたのが、天照皇大神の掛け軸であった。
禰宜荒木田書の署名があった。
荒木田氏は代々伊勢神宮の神官であり、有名な歌人を出している家系である。
これは、私達が荒木田氏を床の間に戴いて担わせてもらっている、という図形ではないか。
「おら、なんと校長先生預かってらった」と、それだけで自慢に思うような「卑しい」身の上の農民に過ぎなかったものだ。
今聞くと、先生は、そこら外国人がいるな、ところで何で俺こんな所にいねねのだ、と話していたという。
奥さんは「越し方」の人だったという。
校長先生を勤め終えてからも生涯学習の講演で忙しくしておられたようだ。
毎晩風呂を沸かして声を掛けてくれる母を気の毒がって、車の免許を取ったばかりの時に、ようさんを日光に連れて行って見せてみたいと語っていたという。
日光に行った時の感動のあまりに、母を連れて行きたいと自然に思いついたのであろう。
先生も岳村の人と親類関係にある人だと最近聞かされたことがある。
赤十字病院に入院しておられた。

あまり人並みに庭先に木がないので、母が実家から背中に背負ってもらってきたのが白つつじで、花言葉は自尊心。
東南の角地に植えられている。
挿し木で増やせると知ってから、双葉公園のさつき並木の芽を頂いて来て、一所懸命にさつき木の庭造りを始めたようである。
つつじ、さつきは挿したその年に花を咲かせる。
花言葉は節制貯金。
母の母親の名もさつき。
次に、道路沿いにずうっとあやめの花壇を伸べようと、毎年球根の手入れを繰り返していたようだ。
花言葉は吉報、合格の知らせ。
次に、生垣作りに、赤白の木瓜の木。また赤白の秋明菊
冬を除いて一年中欠かすことのないように植えられていた、水仙から種々の菊にまでいたる供花用の花々。

また、毎年タネや苗を買ってきて蒔いたり植えたりしなくても済むようにか、畑ににらとアスパラを増やし、家陰一帯に山菜を植え付けていた。
しどけ、みず、うど、ふき。しかし、しどけ以外は十何年も育つままにして食べたことはなかった。
みつばも勢い良く畑を占めているが、母の用意したものかどうか分からない。