この歴史の一時点において、日本作りは江蘇州と決まったものと想像される。 多くの呉越人が海を渡ったのであろう。 

 姫氏を日本人の先祖とする伝説もある。 稲作を中心とした日本の衣食説話文化が、揚子江を遡って共通性を有するのも自然な事であった。 入れ墨や月代禿などの伝統的文化もこのルートに由来しているのである。 蘇民将来伝説もやはり江蘇州からの移民を下敷きとしたものと思われる。
 魏との短い交流の後147年後に国交を回復したのも、やはり江蘇州の東晋からであり、南朝の宋であった。 変わらずこの地域を呉と呼ぶのであるが、狄人の後のさぶちゃんの登場がよほど記念的であったのであろう。
 これを推理すると、取り付く島もない程に中国側の拒絶が高かったというのではなく、派遣はしたにしても、手近な狄人の風貌がいささか馴染みにくかったのと、指が欲しいではあまりに奇天烈である、逃げられるばかりであったが、今度は蘇州から送ったら日本人に好まれた、という対応工夫の道順が浮かび上がってくる。 命くれない、と他には頼るものがなかったというのとも異なるであろう。
 何度も出し入れしているうちに、持ち出す錦布も薄汚れてきていたであろう。 売れないで倉庫に品物がうず高く積もっていたのかもしれない。